オスマン帝国御前会議とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国御前会議(ディヴァーヌ・ヒュマーユーン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/30 18:00 UTC 版)

ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン」の記事における「オスマン帝国御前会議(ディヴァーヌ・ヒュマーユーン)」の解説

オスマン帝国においてはスルタン宮殿において召集され現在の内閣のように国の重要事項監督や、控訴申立て承認一種高等裁判所職務監視などを行う機関であった帝国御前会議トプカプ宮殿聖堂の間(Kubbealtı)において行われた設立第2代皇帝オルハン時代であった帝国初期においては政務皇帝によって直接或いは大宰相によって監督されていたが、イスタンブール獲得以降政務増大により、この議会システム設立が必要となった帝国御前会議オスマン帝国中央組織三大基本要素ひとつとして挙げられる。 残る二つ大宰相府(Bâb-ı âsafî)と 財務長官(Bâb-ı defterî)である。 帝国御前会議においては帝国政治行政軍事慣習司法財務訴訟といった内容議論し関係者による調査経て裁定下した会議あらゆる言語国家階級性別に係らず開かれていた。帝国政治行政慣習といった職務に関して直接会議掛けられその他の問題に関して妥当性反論必要性などの面からも調査加えられた。 国内各地不当な扱い迫害を受ける者、カーディーから誤った判決受けた主張する者、財団から不利益被った者、行政や軍の上司に不満を持つ者など、様々な立場人間帝国御前会議訴え起こしており、全ての場合公平に議論された。加えて戦争和平決定など、あらゆる重要な政務もまた御前会議において議論され決定されていた。会議において終了しなかった議題スルタン上申する必要のない議題は、スルタン代理権を持つ大宰相の、イキンディ・ディヴァーヌにおいて議論裁定為された御前会議は、定例会議の他にカプクル兵士褒賞与えるため3か月一度臨時召集され、また外国大使はこの機会スルタンとの謁見行った。 これはガレベ・ディヴァーヌと呼ばれた皇帝臣民特別な軍事階級官僚直接面会する目的でバービュスサーデ(Bâbüssaâde)と呼ばれる宮殿三番目の門の前で行われた臨時会議はアヤック・ディヴァーヌと呼ばれた。アヤック・ディヴァーヌは多く場合革命混乱期為された君主はこの場で臣民軍人直接対峙し、彼らの問題聞いた。 アヤック・ディヴァーヌでの重要かつ緊急性の高い問題議論即座解決のため、宮殿外や遠征時の軍の陣地においても会議が行われた。この際会議には政府官僚経験豊富軍司令官のみが参加したメフメト2世時代まで、会議の議長スルタン務めていたが、それ以降大宰相務めたスルタンがどこに居ようと、会議スルタン所在地行われたメフメト2世治世下では会議毎日行われ、週に4日スルタンの上が行われた。16世紀以降御前会議は週4日短縮されムラト3世時代にはスルタンの上申も週2回へと削減された。 会議毎週土曜日から火曜日まで行われこの間御前会議メンバー宮殿召集され討議行った日曜日火曜日討議の後、大宰相以下宰相カザスケル、デフテルダル達は宮殿内謁見の間においてスルタン認可を得、議題それぞれに関する処理を行った会議の場には、宰相格でなければイェニチェリ長は参加認められなかった。 メフメト4世スルタンキョプリュリュ・アフメト・パシャ大宰相務めていた時代第二次ウィーン包囲と続く大トルコ戦争によりスルタンエディルネにいたことから会議日曜日火曜日の週2回へと縮小されスルタンイスタンブール戻った1677年以降同様に週2回とされた。このことから帝国政務徐々に大宰相府のイキンディ・ディヴァーヌへと委ねられるようになったアフメト2世治世末期、週2日という会議の不足と官僚達の負担考慮し御前会議再度週4回実施されることとなった18世紀初頭アフメト3世時代には御前会議招集は週2回、さらには1回へと縮減された。さらに時代を下ると会議は完全に放棄されるようになり、政務大宰相府一任された。スルタン意思確認のために要点を示す為 パシャは門において謁見するのみで、会議慣例的に3か月1度行われるのみとなったこの段階で御前会議カプクル給与支払い外国大使受け入れる場へと変化したのである御前会議用いられるトプカプ宮殿聖堂の間は、スレイマン1世時代大宰相ダマット・イブラヒム・パシャによって建造命じられた。 これ以前には、後に旧御前会議の間(Eski Dîvânhâne)と呼ばれる別の会議場存在していた。 御前会議が行われる建物は、イキンジ・イェル(ikinci yer或いはアライ・メイダヌ(alay meydanı)と呼ばれる真ん中の門と三番目の門であるバービュスサーデ(Bâbüssaâde)の間の広場左側位置していた。 聖堂の間或いは御前会議の間は基本的に3つのドームの下に位置していた。 このうち一つ御前会議メンバーの集まる会議場であり、各人座席明確に決まっていた。大宰相宰相の席の上方にスルタン秘密裡会議聞くためのカスル・アドル(Kasr-ı Adl)という格子窓備えられていた。 御前会議18世紀以降重要性失ったにも関わらず完全に廃止されることはなく、帝国終焉までその存在維持していた。

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