オスマン帝国支配下のセルビア
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「セルビア蜂起」の記事における「オスマン帝国支配下のセルビア」の解説
「オスマン帝国支配下のセルビア」を参照 オスマン帝国の侵入開始以降、セルビア人らは大移動を開始した。ボスニア、ダルマチア、ツルナゴーラ、スラヴォニア、ヴォイヴォディナ、彼らは各地に散らばった。1389年のコソボの戦い以降はドナウ川を越えて北方へ脱出する人々も現れた。そしてハンガリーへ脱出した人々は後にハンガリー対オスマン帝国の戦いで大きな役割を演じることになる。 しかし、オスマン帝国に留まったセルビア人らも多数存在した。彼らの中にはデウシルメ制によって強制改宗させられたものや自発的にイスラム教へ改宗したものも現れたが、その大部分はセルビア正教会を中心にキリスト教を奉じ続けた。これはオスマン帝国が宗教に寛容であったことや、地方行政や教会の業務に独立性が認められたこと主因であり、オスマン帝国はセルビア人らに圧制的ではあったが、堪えられないところまで厳しいものではなかった。 また、デウシルメ制で徴用された者の中には大宰相まで上り詰めた者もいた。ソコロヴィチは大宰相にまで昇進すると、オスマン帝国の統治システム、ミッレト制を活用、セルビア正教ミッレトとしてペーチ総主教座を中心にセルビア正教会を構築して1551年以降、宗教上の自治を与え、セルビア人らのアイデンティティを保持させた。 しかし、当初こそ圧政が行われることはなかったが、中央権力が及ばなくなり、パシャ等が腐敗しはじめると徐々に状況が悪化していった。また、オスマン帝国の精鋭、イェニチェリへの徴兵が行われたことがセルビア人らにとって最も不満が募ることであった。徴兵自体は1676年で終了したが、18世紀に入るとイェニチェリが腐敗化、セルビアの地域で重税を課して圧政を始めたため、セルビア人らはこれに苦しんだ。 17世紀以降、オスマン帝国は頂点を越え、衰退へと向かっていた。1664年、ザンクト・ゴットハルトの戦い(en)でオスマン帝国軍がハプスブルク帝国軍に撃破され1683年にはウィーンから撃退された。そのため、1687年にはハンガリーを、1688年にはベオグラードを失った。この事態に至り、セルビア人らは狂喜しながらオスマン帝国へ対抗しようとした。しかし、オーストリア軍はスコピエまで南下したものの、カトリック系であるイエズス会の神父等を伴って正教徒であるセルビア人らの改宗を目論んでいた。このため、オーストリア軍への協力をやめる人が続出、結局、協力を得ることができなくなったオーストリア軍はドナウ川以北へ撤退せざるを得なくなった。1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれたことでハンガリー、クロアチア、スラヴォニアはオーストリア支配下となったが、セルビアはオスマン帝国に残されることになった。 その後もオスマン帝国とオーストリアの間では戦いが続いてたが、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約でワラキアの一部とティミショアラのバナート、そしてセルビアの一部であるサヴァ=ドナウ間の南方一体が譲渡された。しかし、オーストリアはセルビア人らにカトリックを押し付けようとしたため、セルビア人らはこれを嫌いオスマン帝国領へ南下、1738年に再びオーストリアとオスマン帝国との間で再び戦いが始まったが、セルビア人らはこれに協力することはなかった。 そのためセルビア総主教アルセニエ4世(Арсеније IV)がセルビア人らにオスマン帝国と戦うことを説いたが、結局、セルビア人らは協力しなかったため、オスマン帝国は再び勢力を盛り返し、1739年、ベオグラード条約(en)が締結されるとオーストリアは再びサヴァ=ドナウ間南方一体を失い、ベオグラード、モラヴァ川(en)沿岸をも失った。 1739年以降、セルビアは平穏な時代を迎えた。しかし、オスマン帝国の中央集権体制が弱体化したため、地方官吏の力が増していった。そしてさらにオスマン帝国辺境地となったセルビアにイェニチェリが駐屯、イェニチェリらはキリスト教系農民に重税を課し、虐待を行なったため、セルビア人らの状況は悪化する一方であった。また、その一方でオスマン帝国で特殊な地位を築いていたギリシャ系キリスト教徒であるファナリオティスらがギリシャ正教会の勢力増大を狙ってセルビア正教会の廃止を目論んだ。1766年、ペーチ総主教座が、1767年にオフリド大主教座がそれぞれ廃止されたことでセルビア正教会は事実上、廃止された。 18世紀に入るとオスマン帝国が弱体化したことでロシア、オーストリアの勢力が徐々にバルカン半島へ広まっていった。特にロシアはピョートル大帝以降の拡大政策の元、バルカン半島のキリスト教、特に正教徒らへの干渉を強めていった。そしてさらにオスマン帝国を押し戻すのに協力者を必要としていたオーストリアと同盟を結んだ。ただし、この同盟は両国共にバルカン半島を手中に収めようと考えていたため、時に競争となることもあったが、18世紀を通じてロシア、オーストリアは行動を共にするようになった。 1782年、オーストリアのヨーゼフ2世とロシアのエカチェリーナ1世はバルカン半島を分割することで秘密協定を結び、オーストリアはセルビアの一部、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、ダルマチア、モンテネグロを、ロシアは残りの場所をそれぞれ分割することが決定された。1787年、露土戦争 (1787年)(en)が勃発、ロシア、オーストリアの軍隊はオスマン帝国領へなだれ込んだ。この戦争でヨーゼフ2世はセルビア人らにオーストリア軍へ参加することを求める檄を飛ばすと、セルビア北部、シュマディア(en)北部でセルビア人らが蜂起、戦況が有利に進むと愛国的感情まで湧き出す結果に至った。 しかし1791年8月にオーストリア・オスマン帝国間でシストヴァ条約(en)が、1792年にロシア・オスマン帝国間でヤッシー条約(en)がそれぞれイギリス、フランス両国の干渉で結ばれ、セルビア人らは大赦と極わずかの公民権が与えられただけに留まり、セルビア人らの期待は裏切られた。 また、その一方で1789年に発生したフランス革命やドイツ・ロマン主義の台頭はナショナリズムの思想をヨーロッパ西部に広げたが、バルカン半島諸民族の商人らがこれをバルカン半島へ持ち帰り、知識人らに影響を与えた。
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