オスマン帝国支配下のセルビアとは? わかりやすく解説

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オスマン帝国支配下のセルビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 06:43 UTC 版)

セルビア蜂起」の記事における「オスマン帝国支配下のセルビア」の解説

「オスマン帝国支配下のセルビア」を参照 オスマン帝国侵入開始以降セルビア人らは大移動開始したボスニアダルマチアツルナゴーラスラヴォニアヴォイヴォディナ、彼らは各地散らばった1389年コソボの戦い以降ドナウ川越えて北方脱出する人々現れた。そしてハンガリー脱出した人々は後にハンガリーオスマン帝国戦いで大きな役割演じることになる。 しかし、オスマン帝国に留まったセルビア人らも多数存在した。彼らの中にはデウシルメ制によって強制改宗させられたものや自発的にイスラム教改宗したものも現れたが、その大部分セルビア正教会中心にキリスト教奉じ続けた。これはオスマン帝国宗教寛容であったことや、地方行政教会業務独立性認められたこと主因であり、オスマン帝国セルビア人らに圧制的ではあったが、堪えられないところまで厳しいものではなかった。 また、デウシルメ制で徴用された者の中には大宰相まで上り詰めた者もいた。ソコロヴィチは大宰相にまで昇進すると、オスマン帝国の統治システムミッレト制活用セルビア正教ミッレトとしてペーチ総主教座中心にセルビア正教会構築して1551年以降宗教上の自治与えセルビア人らのアイデンティティ保持させた。 しかし、当初こそ圧政が行われることはなかったが、中央権力が及ばなくなりパシャ等が腐敗しはじめると徐々に状況悪化していった。また、オスマン帝国精鋭イェニチェリへの徴兵が行われたことがセルビア人らにとって最も不満が募ることであった徴兵自体1676年終了したが、18世紀に入るとイェニチェリ腐敗化、セルビア地域重税課して圧政始めたため、セルビア人らはこれに苦しんだ17世紀以降オスマン帝国頂点越え衰退へ向かっていた。1664年、ザンクト・ゴットハルトの戦いen)でオスマン帝国軍ハプスブルク帝国軍に撃破され1683年にはウィーンから撃退された。そのため、1687年にはハンガリーを、1688年にはベオグラード失った。この事態至りセルビア人らは狂喜しながらオスマン帝国対抗しようとした。しかし、オーストリア軍スコピエまで南下したものの、カトリック系であるイエズス会神父等を伴って正教徒であるセルビア人らの改宗目論んでいた。このためオーストリア軍への協力をやめる人が続出結局協力を得ることができなくなったオーストリア軍ドナウ川以北撤退せざるを得なくなった1699年カルロヴィッツ条約結ばれたことでハンガリークロアチアスラヴォニアオーストリア支配となったが、セルビアオスマン帝国残されることになったその後オスマン帝国オーストリアの間では戦い続いてたが、1718年結ばれたパッサロヴィッツ条約ワラキア一部ティミショアラバナート、そしてセルビア一部であるサヴァ=ドナウ間の南方一体が譲渡された。しかし、オーストリアセルビア人らにカトリック押し付けようとしたためセルビア人らはこれを嫌いオスマン帝国領南下1738年に再びオーストリアオスマン帝国との間で再び戦い始まったが、セルビア人らはこれに協力することはなかった。 そのためセルビア総主教アルセニエ4世(Арсеније IV)がセルビア人らにオスマン帝国と戦うことを説いたが、結局セルビア人らは協力しなかったため、オスマン帝国は再び勢力盛り返し1739年ベオグラード条約en)が締結されるオーストリアは再びサヴァ=ドナウ南方一体を失いベオグラードモラヴァ川en沿岸をも失った1739年以降セルビア平穏な時代迎えた。しかし、オスマン帝国中央集権体制弱体化したため、地方官吏の力が増していった。そしてさらにオスマン帝国辺境となったセルビアイェニチェリ駐屯イェニチェリらはキリスト教系農民重税課し虐待行なったため、セルビア人らの状況悪化する一方であった。また、その一方でオスマン帝国特殊な地位築いていたギリシャ系キリスト教徒であるファナリオティスらがギリシャ正教会勢力増大狙ってセルビア正教会廃止目論んだ1766年ペーチ総主教座が、1767年オフリド大主教座がそれぞれ廃止されたことでセルビア正教会事実上廃止された。 18世紀に入るとオスマン帝国弱体化したことでロシアオーストリア勢力徐々にバルカン半島広まっていった。特にロシアピョートル大帝以降拡大政策の元、バルカン半島キリスト教、特に正教徒らへの干渉強めていった。そしてさらにオスマン帝国押し戻すのに協力者を必要としていたオーストリア同盟結んだ。ただし、この同盟両国共にバルカン半島手中に収めようと考えていたため、時に競争となることもあったが、18世紀通じてロシアオーストリア行動共にするようになった1782年オーストリアヨーゼフ2世ロシアエカチェリーナ1世バルカン半島分割することで秘密協定を結び、オーストリアセルビア一部ヘルツェゴヴィナボスニアダルマチアモンテネグロを、ロシア残りの場所をそれぞれ分割することが決定された。1787年露土戦争 (1787年)en)が勃発ロシアオーストリア軍隊オスマン帝国領へなだれ込んだ。この戦争ヨーゼフ2世セルビア人らにオーストリア軍参加することを求め檄を飛ばすと、セルビア北部、シュマディア(en北部セルビア人らが蜂起戦況有利に進むと愛国的感情まで湧き出す結果至った。 しかし1791年8月にオーストリア・オスマン帝国間でシストヴァ条約en)が、1792年にロシア・オスマン帝国間でヤッシー条約en)がそれぞれイギリスフランス両国干渉結ばれセルビア人らは大赦わずかの公民権与えられただけに留まりセルビア人らの期待裏切られた。 また、その一方で1789年発生したフランス革命ドイツ・ロマン主義台頭ナショナリズム思想ヨーロッパ西部広げたが、バルカン半島諸民族商人らがこれをバルカン半島持ち帰り知識人らに影響与えた

※この「オスマン帝国支配下のセルビア」の解説は、「セルビア蜂起」の解説の一部です。
「オスマン帝国支配下のセルビア」を含む「セルビア蜂起」の記事については、「セルビア蜂起」の概要を参照ください。

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