オスマン帝国支配下のエジプトとは? わかりやすく解説

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オスマン帝国支配下のエジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「オスマン帝国支配下のエジプト」の解説

詳細は「オスマン帝国領エジプト」を参照 オスマン帝国による征服後、ハーイルバク(英語版)(ハユル・ベイ)がエジプト統治者として送り込まれたが、ジャーニム・アル=サイフィー(Jànım al-Sayfì)とイーナール(Inàl)の反乱1522年)、そして「反逆者(al-Khà"in)」ハイン・アフメト・パシャ(A˙med Pasha)の反乱1523年-1524年)が相次いで発生した。これを鎮圧した後に、スレイマン1世壮麗王)によって派遣され大宰相パルガル・イブラヒム・パシャ1525年規定したカーヌーン・ナーメ(Qānūn Nāmeh地方行政法令集)により、諮問会議ディーワーン)およびオスマン帝国軍現地軍から支援受けたパシャ称号を持つ総督ワーリー)によってエジプト統治されることが定められ安定したオスマン帝国によるエジプトの征服は、現地におけるマムルークたちの権力失わせることはなかった。エジプト行政機構イスタンブルコンスタンティノープル)から派遣され官吏によって率いられていたが、官・軍いずれにおいてもマムルークたちから供給され人員入り込んだブルジー・マムルーク朝リードしたチェルケス人マムルークは、引き続きオスマン帝国編成する現地エジプト軍主要構成員1つであり、軍人として高い地位確保していた。マムルーク朝時代地方総督(カーシフ)による地方統治という基本的な構造はカーヌーン・ナーメの規定でも継承されていた。カーヌーン・ナーメには下エジプトから中部エジプトにかけてと、西部砂漠にカーシフが統治する13の県(sub-province)がリストアップされている。アスユート以南の上エジプトではアラブ人シャイフ、バヌー・ウマル(Banū 'Umar)が支配維持しており、カーヌーン・ナーメの規定では下エジプトのカーシフたちと同じ権能を果たすことが期待されていた。上エジプトの半自律的なアラブ部族支配1576年オスマン帝国上エジプト支配者としてベイ有力者たちが用いた称号)を任命するまで継続した16世紀末になるとオスマン帝国財政難インフレーション影響受けて駐留軍への俸給問題生じ、不満を強めた兵士たちによる示威行動騒乱頻発するようになった1604年にはエジプト総督イブラヒム・パシャ英語版)が蜂起した兵士たちによって殺害される事態となり、1607年6月に新総督となったクルクラン・メフメト・パシャ(英語版)は状況調査した上で総督殺害関与した者たちをカイロから追放し、その報酬没収したその後締め付け対し1609年1月には広範な反乱発生し反逆者たちは自分たちの中からスルターン選出行い大軍集めた。メフメト・パシャは同年中にこの反乱軍撃破し首謀者たちを処刑、または追放した。この出来事17世紀年代記作家イブン・アビー・スルール(アラビア語版)によって「オスマン帝国による第2のエジプト征服」と呼ばれている。 オスマン帝国の支配再建されたが、17世紀に入ると、ベイ呼ばれる有力軍人たちエジプト政治における発言権増大させていったベイ地位に就く軍人にアナトリアバルカン半島出身の自由身分軍人や、チェルケス系マムルークらがおり、彼らはマムルーク軍人中心としたフィカーリーヤ(英語版)と非マムルーク軍人中核としたカースィミーヤ(英語版)という2大派閥を形成していった。この両派閥対立17世紀エジプト政界中核をなした。17世紀前半にはフィカーリーヤの有力者リドワーン・ベイが25年わたってアミール・アル=ハッジ巡礼長官)を務めて大きな権力振るい17世紀半ば以降イスタンブルから送り込まれボスニア系のアフマド・ベイがカースィミーヤを率いて優位に立ったこの間オスマン帝国任命するエジプト総督権威継続的に低下し続け、しばしば現地反対によって就任拒否されたり、現地推す総督イスタンブル追認する事態発生した17世紀末になると、エジプト駐留するオスマン帝国歩兵軍であるイェニチェリアザブカイロ商工業者と結びついて勢力拡大し同時にアナトリアから流入した自由身分兵士たち吸収して軍事的に影響力拡大していった。両軍それぞれにフィカーリーヤ、カースィミーヤと結びついて派閥抗争繰り広げ1711年には武力衝突結果カースィミーヤとアザブ軍が勝利したエジプト総督はフィカーリーヤを支持していたが、この戦いの結果新任総督交代させられることとなり、オスマン帝国はこの「反乱軍」を黙認した主導権握ったカースィミーヤでは間もなく内部対立始まり、この争い勝利したイスマーイール・ベイはオスマン帝国政府からシャイフ・アル=バラド英語版)(カイロの長)という称号授与された。以降エジプト政策決定には総督並んでこのシャイフ・アル=バラド重要性増していくことになる。その後、フィカーリーヤが盛り返し1724年にフィカーリーヤのシルカス・ベイ(英語版)がシャイフ・アル=バラド昇格したが、彼もまた間もなく地位追われた。 両派の争いの中で、1730年代に入ると、イェニチェリ軍団内に登場した党派カーズダグリーヤがその勢力増した1736年にカーズダグリーヤの主導権握ったイブラーヒーム・カトフダーは、派閥抗争最終的な勝利を収めていたフィカーリーヤの勢力一掃し、カーズダグリーヤによるエジプト支配体制形成された。イェニチェリ軍団内の派閥から発達したカーズダグリーヤはアナトリア系の自由身分兵士中核としていたが、政権獲得以降にはその人構成はチェルケス系マムルーク中心とするものに置き換わっていき、このチェルケス系のマムルーク・ベイたちがエジプト支配者となった18世紀後半グルジア系のアリー・ベイ・アル=カービル(英語版)(以下、アリー・ベイ)がカーズダグリーヤの首領アブドゥッラフマーン・カトフダーから主導権奪いエジプト支配権握った。アリー・ベイは19世紀エジプト支配権を握るムハンマド・アリー先駆者とも言われ1769年露土戦争(1768年-1774年)苦しオスマン帝国弱み突いてエジプト独立図ったロシア帝国呼応したアリー・ベイはパレスチナ同じよう自立目指していたアクレ総督ザーヒル・アル=ウマル英語版)と結び、旗下将軍上エジプトシリア派兵し広大な地域支配下収めた。しかし、アリー・ベイの構想シリア遠征軍任せていた将軍ムハンマド・アブー・アッ=ザハブ(英語版の裏切りによって頓挫した。アブー・アッ=ザハブはオスマン帝国密約結んで自らの地位保証を得ると、エジプト戻ってアリー・ベイを攻撃し1773年に完全にこれを打ち破ったその後エジプト支配者となったアブー・アッ=ザハブも1775年急死し、その配下であったムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイがエジプト二頭支配体制確立した1786年オスマン帝国本国で、露土戦争海軍率いて活躍した大宰相ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャ有名無実化していたエジプト対す中央政府支配権回復すべく行動取ったハサン・パシャエジプト遠征行ってこれを平定し一時的にオスマン帝国によるエジプト支配体制再建することに成功した。だが、露土戦争(1787年-1791年)が再び勃発するハサン・パシャエジプトを去ることを余儀なくされ、上エジプト逃れていたムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイが再び支配権回復した両者1798年ナポレオン・ボナパルトによるフランス軍エジプト遠征までエジプト支配者地位に留まった。

※この「オスマン帝国支配下のエジプト」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「オスマン帝国支配下のエジプト」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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