オスマン帝国支配下のエジプト
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「エジプトの歴史」の記事における「オスマン帝国支配下のエジプト」の解説
詳細は「オスマン帝国領エジプト」を参照 オスマン帝国による征服後、ハーイルバク(英語版)(ハユル・ベイ)がエジプト統治者として送り込まれたが、ジャーニム・アル=サイフィー(Jànım al-Sayfì)とイーナール(Inàl)の反乱(1522年)、そして「反逆者(al-Khà"in)」ハイン・アフメト・パシャ(A˙med Pasha)の反乱(1523年-1524年)が相次いで発生した。これを鎮圧した後に、スレイマン1世(壮麗王)によって派遣された大宰相パルガル・イブラヒム・パシャが1525年に規定したカーヌーン・ナーメ(Qānūn Nāmeh、地方行政法令集)により、諮問会議(ディーワーン)およびオスマン帝国軍と現地軍から支援を受けたパシャの称号を持つ総督(ワーリー)によってエジプトが統治されることが定められ、安定した。 オスマン帝国によるエジプトの征服は、現地におけるマムルークたちの権力を失わせることはなかった。エジプトの行政機構はイスタンブル(コンスタンティノープル)から派遣された官吏によって率いられていたが、官・軍いずれにおいてもマムルークたちから供給された人員が入り込んだ。ブルジー・マムルーク朝をリードしたチェルケス人のマムルークは、引き続きオスマン帝国が編成する現地エジプト軍の主要構成員の1つであり、軍人として高い地位を確保していた。マムルーク朝時代の地方総督(カーシフ)による地方統治という基本的な構造はカーヌーン・ナーメの規定でも継承されていた。カーヌーン・ナーメには下エジプトから中部エジプトにかけてと、西部砂漠にカーシフが統治する13の県(sub-province)がリストアップされている。アスユート以南の上エジプトではアラブ人のシャイフ、バヌー・ウマル(Banū 'Umar)が支配を維持しており、カーヌーン・ナーメの規定では下エジプトのカーシフたちと同じ権能を果たすことが期待されていた。上エジプトの半自律的なアラブ部族の支配は1576年にオスマン帝国が上エジプトの支配者としてベイ(有力者たちが用いた称号)を任命するまで継続した。 16世紀末になるとオスマン帝国の財政難やインフレーションの影響を受けて駐留軍への俸給に問題が生じ、不満を強めた兵士たちによる示威行動や騒乱が頻発するようになった。1604年にはエジプト総督イブラヒム・パシャ(英語版)が蜂起した兵士たちによって殺害される事態となり、1607年6月に新総督となったクルクラン・メフメト・パシャ(英語版)は状況を調査した上で、総督殺害に関与した者たちをカイロから追放し、その報酬を没収した。その後の締め付けに対し、1609年1月には広範な反乱が発生し、反逆者たちは自分たちの中からスルターンの選出を行い、大軍を集めた。メフメト・パシャは同年中にこの反乱軍を撃破し首謀者たちを処刑、または追放した。この出来事は17世紀の年代記作家イブン・アビー・スルール(アラビア語版)によって「オスマン帝国による第2のエジプト征服」と呼ばれている。 オスマン帝国の支配は再建されたが、17世紀に入ると、ベイと呼ばれる有力軍人たちがエジプト政治における発言権を増大させていった。ベイの地位に就く軍人にはアナトリアやバルカン半島出身の自由身分の軍人や、チェルケス系マムルークらがおり、彼らはマムルーク軍人を中心としたフィカーリーヤ(英語版)と非マムルーク系軍人を中核としたカースィミーヤ(英語版)という2大派閥を形成していった。この両派閥の対立は17世紀のエジプト政界の中核をなした。17世紀前半にはフィカーリーヤの有力者リドワーン・ベイが25年にわたってアミール・アル=ハッジ(巡礼長官)を務めて大きな権力を振るい、17世紀半ば以降はイスタンブルから送り込まれたボスニア系のアフマド・ベイがカースィミーヤを率いて優位に立った。この間、オスマン帝国が任命するエジプト総督の権威は継続的に低下し続け、しばしば現地の反対によって就任が拒否されたり、現地が推す総督をイスタンブルが追認する事態も発生した。 17世紀末になると、エジプトに駐留するオスマン帝国の歩兵軍であるイェニチェリとアザブがカイロの商工業者と結びついて勢力を拡大し、同時にアナトリアから流入した自由身分の兵士たちを吸収して軍事的にも影響力を拡大していった。両軍はそれぞれにフィカーリーヤ、カースィミーヤと結びついて派閥抗争を繰り広げ、1711年には武力衝突の結果カースィミーヤとアザブ軍が勝利した。エジプト総督はフィカーリーヤを支持していたが、この戦いの結果新任の総督に交代させられることとなり、オスマン帝国はこの「反乱軍」を黙認した。主導権を握ったカースィミーヤでは間もなく内部対立が始まり、この争いに勝利したイスマーイール・ベイはオスマン帝国政府からシャイフ・アル=バラド(英語版)(カイロの長)という称号を授与された。以降、エジプトの政策決定には総督と並んでこのシャイフ・アル=バラドが重要性を増していくことになる。その後、フィカーリーヤが盛り返し、1724年にフィカーリーヤのシルカス・ベイ(英語版)がシャイフ・アル=バラドに昇格したが、彼もまた間もなく地位を追われた。 両派の争いの中で、1730年代に入ると、イェニチェリ軍団内に登場した党派カーズダグリーヤがその勢力を増した。1736年にカーズダグリーヤの主導権を握ったイブラーヒーム・カトフダーは、派閥抗争に最終的な勝利を収めていたフィカーリーヤの勢力を一掃し、カーズダグリーヤによるエジプト支配体制が形成された。イェニチェリ軍団内の派閥から発達したカーズダグリーヤはアナトリア系の自由身分兵士を中核としていたが、政権獲得以降にはその人員構成はチェルケス系マムルークを中心とするものに置き換わっていき、このチェルケス系のマムルーク・ベイたちがエジプトの支配者となった。 18世紀後半、グルジア系のアリー・ベイ・アル=カービル(英語版)(以下、アリー・ベイ)がカーズダグリーヤの首領アブドゥッラフマーン・カトフダーから主導権を奪いエジプトの支配権を握った。アリー・ベイは19世紀にエジプトの支配権を握るムハンマド・アリーの先駆者とも言われ、1769年に露土戦争(1768年-1774年)に苦しむオスマン帝国の弱みを突いてエジプトの独立を図った。ロシア帝国と呼応したアリー・ベイはパレスチナで同じように自立を目指していたアクレ総督ザーヒル・アル=ウマル(英語版)と結び、旗下の将軍を上エジプトやシリアに派兵して広大な地域を支配下に収めた。しかし、アリー・ベイの構想はシリア遠征軍を任せていた将軍ムハンマド・アブー・アッ=ザハブ(英語版)の裏切りによって頓挫した。アブー・アッ=ザハブはオスマン帝国と密約を結んで自らの地位の保証を得ると、エジプトに戻ってアリー・ベイを攻撃し、1773年に完全にこれを打ち破った。その後エジプトの支配者となったアブー・アッ=ザハブも1775年に急死し、その配下であったムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイがエジプトの二頭支配体制を確立した。 1786年、オスマン帝国本国で、露土戦争で海軍を率いて活躍した大宰相ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャが有名無実化していたエジプトに対する中央政府の支配権を回復すべく行動を取った。ハサン・パシャはエジプトに遠征を行ってこれを平定し、一時的にオスマン帝国によるエジプト支配体制を再建することに成功した。だが、露土戦争(1787年-1791年)が再び勃発するとハサン・パシャはエジプトを去ることを余儀なくされ、上エジプトに逃れていたムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイが再び支配権を回復した。両者は1798年のナポレオン・ボナパルトによるフランス軍のエジプト遠征までエジプトの支配者の地位に留まった。
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