ブルジー・マムルーク朝(チェルケス朝)
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「エジプトの歴史」の記事における「ブルジー・マムルーク朝(チェルケス朝)」の解説
ブルジー・マムルーク朝の立役者となったバルクークが死去した後、マムルーク朝では再びクーデターと反乱が頻発し世相が安定しなかった。バフリー朝時代からのペストの流行は変わらず猛威を振るっており、このことは政治・社会に大きな影響を与えた。スルターン・バルスバーイ(在位:1422年-1438年)はペストの流行を人々の罪に対する神の罰と解釈し、異教徒への課税の強化や戒律の厳格な実践を要求する一方、イクターからの税収減を補うために様々な代替制度が準備された。既に、バフリー・マムルーク朝末期から、有力なアミールたちは減少するイクターの収入を補填するために国家がハラージュ(地租)を徴収する直轄地を「賃借地」として手中に収め、私有地も含めて私財の獲得にまい進していた。スルターンもまた元来はアミールの一員であったことから、このような私財を蓄え、広大な私領を抱えていった。また、バルスバーイは香辛料、砂糖、織物などの専売制を敷き、スルターン自身がこれらの商品をヨーロッパ商人に割高の価格で販売することを定めたことが知られている。ブルジー朝期においては、アミール時代からの資産獲得活動の一環として、スルターンという地位を利用しての国家資産からスルターン私財への転用も頻繁に行われた。しかし、スルターン私財の多くが国家資産の転用となったことで、スルターン私財と国家資産の区別は曖昧となり、やがてスルターン私財はスルターン就任者が直接掌握する地位に付属した財源に発展していった。 マムルーク朝が財政難や様々な政治的混乱を乗り切るべく大きな変化を遂げている最中、中東ではオスマン帝国が急速に勢力を拡大し、政治地図を大きく塗り替えつつあった。オスマン・ベイ(在位:1299年-1326年)率いる小集団から出発したオスマン帝国は、15世紀にはビザンツ帝国を滅ぼし(1453年)、アナトリア半島のテュルク系諸侯も次々と制圧するとともに、バルカン半島にも勢力を拡張していた。15世紀半ば以降、マムルーク朝支配下にあったシリアにオスマン帝国が侵入するようになり、その軍事的圧力はマムルーク朝の財政難を一層深刻化させた。銃火器を多用するオスマン帝国軍に対抗するためにマムルーク朝でも銃砲の導入が進められたが、騎乗して戦うことを重視したマムルークたちがこれを忌避したため、新編の軍団や傭兵という形で銃砲を装備した歩兵軍団が整備された。 また、マムルーク軍団は元来、軍事奉仕の引き換えに割り当てられたイクターによって武装を自弁するのが建前であったが、イクターによる収益の縮小はそれを不可能なものとし、この頃にはスルターンに集中した財政からの俸禄の支払いが重要になるとともに、軍事力は弱体化していた。しかしこの俸禄も女性や子供を含む戦闘能力を持たないマムルーク子弟たちの間で単なる収入源として受給するものが増えていた。スルターン、カーイトバーイ(在位:1468年-1496年)の時代には、シリア周辺における相次ぐオスマン帝国との戦闘によって巨額の遠征費用と俸禄が必要とされたため、財政を回復させるべく俸禄の支給対象者の軍事能力審査などの改革を行われ、財政再建が図られた。 しかし、最終的にマムルーク朝はオスマン帝国の圧力に対抗することはできなかった。スルターン・ガウリー(在位:1501年-1516年)は1516年8月にシリアのアレッポ北方にあるマルジュ・ダービクの戦いでオスマン帝国のスルターン・セリム1世(在位:1512年-1520年)に敗れて戦死し、次いで最後の抵抗を試みたトゥーマーンバーイ(在位:1516年-1517年)もカイロ近郊で敗れ、1517年1月にオスマン帝国軍がカイロに入場した。トゥーマーンバーイは逃亡を図ったが捕らえられて殺害され、ここにマムルーク朝が滅亡しエジプトはオスマン帝国の一属州となった。
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ブルジー・マムルーク朝
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「マムルーク朝」の記事における「ブルジー・マムルーク朝」の解説
詳細は「en:Burji dynasty」を参照 1382年、バルクークはカラーウーン家のスルターンを廃して自ら王位に就いた。バルクークはチェルケス人主体のブルジー軍団の出身のマムルークで、バルクーク以降、マムルーク朝の主体となるマムルークがそれまでのバフリー・マムルークからブルジー・マムルークに移るため、この時期のマムルーク朝をブルジー・マムルーク朝あるいはチェルケス・マムルーク朝と呼んでいる。 ブルジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われなくなり、スルタンは有力アミールの間から互選で選ばれる第一人者となっていた。この制度のため、アミールたちはスルタン候補となる有力アミールのもとで軍閥を形成し、軍閥同士の派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しくならざるを得なかった。 15世紀にはペストの流行をきっかけにカイロの繁栄に陰りが見え始め、マムルーク朝を支えたエジプトの経済も次第に沈降に向かった。16世紀初頭にはインド洋貿易にポルトガル人が参入し、1509年にはマムルーク朝の海軍はインドのディーウ沖でポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊に敗れた(ディーウ沖の海戦)。陸上ではオスマン朝との対立が深まり(オスマン・マムルーク戦争)、1516年、北シリアのアレッポ北方で行われたマルジュ・ダービクの戦いでセリム1世率いるオスマン軍に大敗を喫した。翌年、セリム1世はカイロを征服し(リダニヤの戦い)、マムルーク朝は滅亡した。
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