ブルジー・マムルーク朝とは? わかりやすく解説

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ブルジー・マムルーク朝(チェルケス朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「ブルジー・マムルーク朝(チェルケス朝)」の解説

ブルジー・マムルーク朝の立役者となったバルクーク死去した後、マムルーク朝では再びクーデター反乱頻発し世相安定しなかった。バフリー朝時代からのペスト流行変わらず猛威振るっており、このことは政治・社会大きな影響与えた。スルターン・バルスバーイ(在位1422年-1438年)はペスト流行人々の罪に対する神の罰と解釈し異教徒への課税強化戒律厳格な実践要求する一方イクターからの税収減を補うために様々な代替制度準備された。既に、バフリー・マムルーク朝末期から、有力なアミールたちは減少するイクター収入補填するために国家ハラージュ地租)を徴収する直轄地を「賃借地」として手中に収め私有地含めて私財獲得まい進していた。スルターンもまた元来アミール一員であったことから、このような私財蓄え広大な私領抱えていった。また、バルスバーイは香辛料砂糖織物などの専売制敷きスルターン自身がこれらの商品ヨーロッパ商人割高価格販売することを定めたことが知られている。ブルジー朝期においてはアミール時代からの資産獲得活動一環としてスルターンという地位利用して国家資産からスルターン私財への転用頻繁に行われた。しかし、スルターン私財多く国家資産転用となったことで、スルターン私財国家資産区別曖昧となり、やがてスルターン私財スルターン就任者が直接掌握する地位付属した財源発展していった。 マムルーク朝財政難様々な政治的混乱乗り切るべく大きな変化遂げている最中中東ではオスマン帝国急速に勢力拡大し政治地図大きく塗り替えつつあった。オスマン・ベイ在位1299年-1326年率い小集団から出発したオスマン帝国は、15世紀にはビザンツ帝国滅ぼし1453年)、アナトリア半島のテュルク諸侯次々と制圧するとともにバルカン半島にも勢力拡張していた。15世紀半ば以降マムルーク朝支配下にあったシリアオスマン帝国侵入するようになり、その軍事的圧力マムルーク朝財政難を一層深刻化させた。銃火器多用するオスマン帝国軍対抗するためにマムルーク朝でも銃砲導入進められたが、騎乗して戦うことを重視したマムルークたちがこれを忌避したため、新編軍団傭兵という形で銃砲装備した歩兵軍団整備された。 また、マムルーク軍団元来軍事奉仕引き換え割り当てられイクターによって武装自弁するのが建前であったが、イクターによる収益縮小はそれを不可能なものとし、この頃にはスルターン集中した財政からの俸禄支払い重要になるとともに軍事力弱体化していた。しかしこの俸禄女性子供を含む戦闘能力持たないマムルーク子弟たちの間で単なる収入源として受給するものが増えていた。スルターン、カーイトバーイ(在位1468年-1496年)の時代には、シリア周辺における相次ぐオスマン帝国との戦闘によって巨額遠征費用俸禄が必要とされたため、財政回復させるべく俸禄支給対象者の軍事能力審査などの改革行われ財政再建図られた。 しかし、最終的にマムルーク朝オスマン帝国圧力対抗することはできなかった。スルターン・ガウリー(在位1501年-1516年)は1516年8月シリアアレッポ北方にあるマルジュ・ダービクの戦いオスマン帝国のスルターン・セリム1世在位1512年-1520年)に敗れて戦死し次いで最後の抵抗試みたトゥーマーンバーイ(在位1516年-1517年)もカイロ近郊敗れ1517年1月オスマン帝国軍カイロ入場した。トゥーマーンバーイは逃亡図った捕らえられ殺害され、ここにマムルーク朝滅亡しエジプトオスマン帝国の一属州となった

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ブルジー・マムルーク朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 09:57 UTC 版)

マムルーク朝」の記事における「ブルジー・マムルーク朝」の解説

詳細は「en:Burji dynasty」を参照 1382年バルクークカラーウーン家のスルターン廃して自ら王位就いたバルクークチェルケス人主体のブルジー軍団出身マムルークで、バルクーク以降マムルーク朝主体となるマムルークそれまでのバフリー・マムルークからブルジー・マムルークに移るため、この時期マムルーク朝をブルジー・マムルーク朝あるいはチェルケス・マムルーク朝と呼んでいる。 ブルジー・マムルーク朝では、スルタン世襲行われなくなりスルタンは有力アミールの間から互選選ばれる第一人者となっていた。この制度のため、アミールたちはスルタン候補となる有力アミールのもとで軍閥形成し軍閥同士派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しくならざるを得なかった。 15世紀にはペスト流行きっかけカイロ繁栄陰り見え始めマムルーク朝支えたエジプト経済次第沈降向かった16世紀初頭にはインド洋貿易ポルトガル人参入し1509年にはマムルーク朝海軍インドディーウ沖でポルトガルフランシスコ・デ・アルメイダ率い艦隊敗れたディーウ沖の海戦)。陸上ではオスマン朝との対立深まりオスマン・マムルーク戦争)、1516年、北シリアアレッポ北方行われたマルジュ・ダービクの戦いセリム1世率いオスマン軍大敗喫した翌年セリム1世カイロ征服しリダニヤの戦い)、マムルーク朝滅亡した

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