ブルジョワ秩序の「番犬たち」糾弾
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「ポール・ニザン」の記事における「ブルジョワ秩序の「番犬たち」糾弾」の解説
とりわけ、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)とピエール・G・レヴィー(Pierre G. Levy)によって1929年に創刊された『ビフュール(フランス語版)(Bifur)』は、ジャコメッティ、ベルメール、デルヴォーらが寄稿していた『ミノトール(フランス語版)(ミノタウロスの意)』、アラゴン、ブルトン、ペレ、ナヴィルによって創刊されたシュルレアリスム運動の機関誌『シュルレアリスム革命』、ジョルジュ・バタイユらを中心とする『ドキュマン(フランス語版)』と並んで、戦間期の前衛文学・芸術運動で重要な役割を担った文学雑誌であり、トリスタン・ツァラ、アンリ・ミショー、フィリップ・スーポーらが寄稿し、ケルテース・アンドル、モホリ=ナジ・ラースロー、クロード・カアンらの作品も掲載されたが、第5号からニザンが文学顧問として参加すると、共産党宣伝部からの依頼もあって政治色の強い雑誌になり、第8号で終刊となった。編集事務局を務めていた映画評論家のニーノ・フランクは、これをニザンの責任であると非難した。『ビフュール』誌第7号に1932年刊行の抗議文書『番犬たち』の初稿にあたる「哲学に関する注釈・計画(Notes-programme sur la philosophie)」が掲載された。『番犬たち』ではソルボンヌの著名な哲学教授、とりわけ、合理主義の数理哲学者レオン・ブランシュヴィックとノーベル文学賞を受賞した哲学者アンリ・ベルクソンをブルジョワ秩序の「番犬たち」、あるいは「ブルジョワ秩序を説く大司教」であるとし、学生に対して抽象的な哲学を説くことで、彼らが世界に目を開くことを妨げていると痛烈に批判した。さらに、知的エリートと政治権力が結託した時代にあって、著作活動は人類のための活動ではなく、国の制度やイデオロギーの道具(大学、報道、警察)で守られた特権階級・支配者階級のための活動にすぎないと断じた。これはマルクス主義者・共産党員として活動を共にしたポリツェルと同様の視点であり、ポリツェルもまた彼が創刊し、ニザンも寄稿した『具体的心理学評論(La Revue de psychologie concrète)』誌に発表した「哲学天国ベルクソン主義の終焉」で、ベルクソン、ブランシュヴィックら「現代のスコラ学派」の「過度に深遠な」哲学をプチブル哲学と呼び、国家に危険をもたらすような(たとえばプロレタリア革命のような)真の問題解決を回避するために、問題の対象範囲を超える「抽象的」で「深遠」な解決を提唱しているにすぎないと批判した。
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