芸術運動
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学問としての人智学は、1910年の『神秘学概論』の出版によってその頂点を迎えた。確かに、これ以降もシュタイナーは精神科学の研究を続け新しい研究結果を発表したが、それは常に専門分野に関するもので、思想としての全体像を補う「部分」であった。 芸術運動としての人智学運動の最初の胎動は、その学問的隆盛以前の1907年にすでに見出される。この年の聖霊降臨祭に開催されたミュンヘン会議においてシュタイナーは、インテリア設計において自らの思想(不可視なもの)を芸術を通して可視的な空間に表現することを試みた(ただし、当時かれはプラトン的芸術解釈を否定していた)。そして、この試みは徐々に発展し、人智学芸術運動の象徴的な存在である「ヨハネス建築」の設計に至る。ミュンヘンでのヨハネス建築の計画は当局の建設許可が下りなかったために頓挫したが、スイスのバーゼル近郊都市ドルナッハの土地を篤志家から提供され、1913年9月に建設が始まる。1918年以降は「ゲーテアヌム」と呼ばれるこの木造建築は、1922年の大晦日に未完成のままで放火にあい消失した。同一の場所には、それまでとは全く異なる外観のコンクリート建築が建てられ、それは1923年末に新たに創立された「普遍アントロポゾフィー協会」(Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft, 一般人智学協会)の本部となった。一般的に、この現存する建築物は第二ゲーテアヌムと呼ばれ、消失した木造建築は第一ゲーテアヌムと呼ばれる。 1908年頃にはオイリュトミーという全く新しい運動芸術・舞踏芸術がシュタイナーによって始められる。これは日本で最も有名な「シュタイナー芸術」である。オイリュトミーはシュタイナーが死去する1925年まで長い年月をかけて徐々に発展し、最終的には治療オイリュトミーという形で医療の現場にも用いられるようになる。特にドイツでは、治療オイリュトミーによる医療行為に対しても保険が適用されるほど一般に認知されている。 1910年から1913年までの四年間、シュタイナーは毎年夏に戯曲『神秘劇』を新たに書き下ろし、それはミュンヘンで上演された。その内容は主人公であるヨハネス・トマジウス(上記の「ヨハネス建築」はかれの名前に由来)をはじめとする、近代的な人間の精神的成長の過程を描いたものである。シュタイナーは人間の成長を、芸術を通して「具体的に」描こうと試みたのである。1912年に上演された神秘劇第三部の中では、上記のオイリュトミーが初めて上演されたので、この年は本来の芸術としての「オイリュトミー誕生の年」であると認知されている。
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「芸術運動」の例文・使い方・用例・文例
- 合理性、抑制および厳密な形式を好んだ、17世紀から18世紀のヨーロッパの文学・芸術運動
- 20世紀初めにヨーロッパで花開いた(特に絵画における)虚無主義的な芸術運動
- 20世紀の初めの芸術運動
- 表現主義に基づく芸術運動
- 作品が明るく、非自然の色と単純な形によって特徴づけられる1905年に開始された芸術運動
- 機械時代のエネルギーと価値を表現しようとした1910年頃のイタリアの芸術運動
- 米国における芸術運動で、ハドソン・リバー派から生じた
- 1950年代に始まり、形と色の極端な簡素化を強調した彫刻と絵画の芸術運動
- 芸術と文学におけるロマン主義の復興に基づく芸術運動
- 1960年代のフランス映画における芸術運動
- アバンギャルドという芸術運動
- セセッションという芸術運動
- 前衛派という,第一次大戦後に起こった革新的な芸術運動
- 前衛派という,第一次大戦後に起こった芸術運動を実践した人々
- 既成の価値や形式を破壊しようとした,1920年前後の芸術運動
- 超現実主義という芸術運動
- フォービスムという芸術運動に加わった人々
- 純粋主義という芸術運動
- ポスター芸術という芸術運動
- 1920年代にロシアで展開された芸術運動
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