芸術評価
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王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」として宗教・芸術一元論を提唱した。当人も絵画・陶芸・短歌に通じ「芸術の 趣味を悟らぬ人々は 地上天国夢にも来らず」と詠う。さらに83冊にわたる膨大な「霊界物語」を著すなど、多種多彩な才能を持っていた。教団の建造物設計にも関わっている。映画界にも進出、東京多摩川に映画部玉川研究所、亀岡に撮影所を開設すると、監督・脚本・役者をこなして精力を傾けた。 短歌では異才を発揮した。1927年(昭和2年)には文芸活動を推進する明光社(明智光秀に由来)を組織し、大量の短歌を投稿する。1930年(昭和5年)に前田夕暮のサークルに入り、ついでアララギ・あけびなど50余の短歌結社に参加して、月に1000首を詠んだ。60歳のとき受けた大宅壮一のインタビューにおいて、1日に2、3百首の短歌を詠み、これまで5-60万首詠んだと語ったという。1931年(昭和6年)刊行の第一歌集『花明山』の序文で前田は「現代のスフィンクス」と評した。尾上柴舟も、王仁三郎の歌集『彗星』の序文で、大量生産を褒めつつ質を高めるよう批評したが、王仁三郎は序文そのものに対し無邪気に喜んでいた。結局、生涯に10-15万首を詠み、王仁三郎らしい偉業と言える。全く推敲をしないため玉石混淆であるが、歌人石井辰彦は歌人としての王仁三郎を再評価すべきとしている。 陶芸にも足跡を残した。王仁三郎は第二次大本事件拘留中の構想を元に、1945年元旦から翌年3月にかけて、36回の窯・3000個の茶碗をつくった。1949年(昭和24年)2月6日、陶芸家・金重陶陽を訪ねた日本美術工芸社主幹・加藤義一郎がその日見た王仁三郎の茶碗に感銘を受けて「耀盌(ようわん)」と名づけ、日本美術工芸誌三月号と八月号に発表した。書画なども北大路魯山人ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。瀬戸内寂聴は亀岡で出口直日と対談し、王仁三郎の陶芸作品に接して「王仁三郎の心臓」と評した。 芸術家フレデリック・フランク(英語版)は王仁三郎を『芸術家の原型』と評し、「生涯にわたり、自らの衝動と思考の一つ一つに、形相と形態と実体を与え続けずにはいられなかったのだ」と述べた。 小説家坂口安吾は「秀吉的な駄々っ子精神を、非常に突飛な形式ではあるけれども、とにかく具体化した人ではなかろうか」と考え、破壊された大本本部跡地を見にいったが、「スケールが言語道断に卑小にすぎて、ただ、直接に、俗悪そのものでしかなかった」と語っている。
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芸術評価
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北大路魯山人は69歳の時に陶芸家・金重陶陽の家で澄の「書」を見て感激、面会して意気投合した。魯山人は澄の書を表装すると居間に掲げていたという。陶芸家黒田領冶は「(魯山人は)書にかけて何人も追従し得ない高い見識と実力をもっていたが、魯山人は『大本』二代すみこの書には、だれにもないものを感じていた」と記している。
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