第二次大本事件とは? わかりやすく解説

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第二次大本事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:41 UTC 版)

出口王仁三郎」の記事における「第二次大本事件」の解説

1930年代初頭満州事変勃発して中国大陸への軍事進出本格化世界大恐慌による大不況国際連盟の脱退国内では五・一五事件右翼団体蜂起相次いで発生するなど、不安定な時代だった。大本1930年昭和5年3月8日5月6日まで京都岡崎公園開催され大宗博覧会参加大成功収める。さらに日本全国沖縄朝鮮半島台湾作品展講演会映画上映行い大本イメージ向上に成功した廃刊になった大正日日新聞にかわり、日刊紙北国夕刊新聞」(金沢)、「丹州時報舞鶴)」、「東京毎夕新聞」を買収人類愛新聞街頭演説講演会活発に宣伝する王仁三郎時代流れを掴むことに長けメディア積極的に利用活用して成功収めた破天荒多才な教祖と言える人類愛善会活動エスペラント運動通じて満州国筆頭海外進出を行う一方王仁三郎国民愛国意識のたかまりを背景大本右翼化・愛国化を進める。大本信者中核とする昭和青年会昭和坤生会は各地防空運動展開し愛国団体として注目された。1934年昭和9年7月22日王仁三郎九段会館において精神運動団体昭和神聖会」を結成し、より大規模な運動乗り出していった(王仁三郎は統管)。昭和神聖会発会式には後藤文雄内務大臣文部大臣農林大臣衆議院議長陸海軍高級将校大学教授など政財界指導者層が参加したこの他石原莞爾板垣征四郎といった急進派陸軍将校久原房之助政治家)も王仁三郎信奉者であり、あるいは影響受けている。王仁三郎大本指導日出麿に委任すると、昭和神聖会指揮するため東京四谷移った農村救済運動筆頭に、国内外問題について政府の対応批判岡田内閣打倒さえ訴えたという。さらに「尋仁(世界紅卍字会訓による命名)」と記した制服着用東京駅から皇居まで900人を従えて行進を行う。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説に対しては「神聖皇道」の観点から厳しい批判加えた王仁三郎は『わが道野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った。国家権力意図的に挑発するような王仁三郎行動現代でも解釈難しく真意今もって不明である。逮捕直前大規模弾圧予期したのような指示周囲与えた王仁三郎肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった詳細は「大本事件」を参照 1935年昭和10年1月に、昭和神聖会皇族を主班とする皇族内閣創設天皇直接請願する署名集める。革命気運恐怖した日本政府王仁三郎母体である大本治安維持法によって徹底排除することを意図した。さらに『大本神諭』や『霊界物語』で唱えられ大本神話教義天皇現人神天皇制)の権威正統性脅かしかねないという宗教的な理由存在した同年12月8日政府は第二次大本事件によって苛烈攻撃加えた唐沢俊樹内務省警保局長大本地上から抹殺する方針である事を各方面指令している。王仁三郎松江市島根別院拘束された。夫妻以下幹部達は治安維持法違反不敬罪逮捕され毎日新聞朝日新聞などの大手マスコミ大本を「邪教」と断定する裁判前にも関わらず政府亀山城にあった神殿ダイナマイト爆破し綾部地方施設全て破壊財産安価処分した人類愛善会など大本関連団体解散活動停止追い込まれる出版物全て発行禁止処分となっている。孤立無援王仁三郎は「道鏡以来逆賊」と糾弾され特別高等警察により拷問めいた取調べ受けたが、裁判では悠然と反論し時に裁判長唸らせることもあった。また満州国指導者層は鈴木検事大本事件担当)が「紅卍会大本極めて密接。満州国大本教勢力侮りがたい」と報告したように王仁三郎同情的であり、支援の手をさしのべている。だが王仁三郎後継者目され出口日出麿拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した1940年昭和15年2月29日第一審幹部全員有罪で、王仁三郎無期懲役という判決だった。1942年昭和17年7月31日第二審判決では高野綱雄裁判長判決文の中で「大本宇宙観・神観・人生観理路整然たる教義を持つ宗教である」として、重大な意味を持つ治安維持法については全員無罪判決言い渡した不敬罪懲役5年(最高刑)は残ったものの、6年8ヶ月(2453日)ぶりに71歳保釈出所となった不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年昭和20年10月17日敗戦による大赦令で無効になった。1947年昭和22年10月刑法改正され不敬罪消滅した保釈後、関係の弁護士たち国家対す損害賠償請求訴訟について打ち合わせると、王仁三郎言下に「今度事件神様摂理だ。わしはありがたいと思っている。今更過ぎ去ったことをかれこれ言い当局不当ならしてみて何になる。賠償求めて敗戦後国民膏血を絞るようなことをしてはならぬ」と述べた。また「大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争時には戦争協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本戦争している時に日本土地生まれた者が戦争協力せぬでは、国家社会承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから戦争協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度大本事件の一番大きな意義だ。これは大事なことだよ」と述べた。この王仁三郎発言により、国家に対して一切賠償求めないことになり、これを伝え聞いた人々が「ほんとう宗教家ということ初めわかった」と感嘆したエピソードがある。

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第二次大本事件

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出口王仁三郎」の記事における「第二次大本事件」の解説

霊界物語』の筆記者だった信者によれば、第二次大本事件直前側近達を集め霊界物語全巻セット各人配り熟読するよう告げた1928年昭和3年3月3日、満56歳7ヶ月王仁三郎綾部で「みろく大祭」を挙行自身弥勒菩薩救世主であると宣言した儀式最中王仁三郎リンゴ3個を取り妻子幹部達に大根や頭薯を与える。当局はこの儀式を「国体変革目的とした結社組織し政権奪取せんとした陰謀」として治安維持法違反根拠とした。実際には、検察論告こじつけ滑稽話に近かった王仁三郎事件後の回顧歌で「大根何程食ふもあたらねど その反対に人を殺せり」「恐ろしき闇世なるかな大根生命を奪るとは前代未聞よ」と詠っている。 事件直前12月6日二・二六事件首謀者北一輝王仁三郎会ってクーデター資金提供求めた王仁三郎一蹴された北は暗殺示唆したが、12月8日王仁三郎松江逮捕され空振り終わった。後に王仁三郎は「警察保護されたも同然北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろう」と語っている。北と共に処刑され西田税自伝にも大本研究したことが記されており、資金提供頼んだのは西田という見解もある。 北一輝大正8-9年頃に王仁三郎会見していた。二・二六事件逮捕された北は当局対し変な姿。自分信仰(独自解釈した法華経)に因る神秘的体験から観ると、大本教は神ではなく相当な邪霊皇室滅ぼそうとしている」「断じて大本教接触しないよう指導した」と王仁三郎について語る。伝記北一輝-日本的ファシスト象徴によれば王仁三郎は自ら希望して北と会見しガタガタ震えて北に圧服された」と描写するが、実際北の方王仁三郎手紙出しており、伝記は北の側のリップサービスである。松本健一は、王仁三郎と北が天皇制国家の内で「天皇革命」の原理打ち出して神の国もう一つ天皇制国家)」を創造しようとした点で『似たもの同士』と論じた天皇制国家大日本帝国)が大本忌み嫌ったのも当然であったとされる王仁三郎と北の会見同席した大川周明は「出口下劣取るに足らぬ奴」と評したが、東京裁判中の1948年昭和23年1月21日日記に「出口王仁三郎死亡」と記述した。 第二次大本事件当日、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した当局側は大本武装蜂起信じており、水杯交わして決死突入であった木戸幸一日記によれば1935年12月13日(第二次大本事件、王仁三郎逮捕から5日後)に唐沢俊樹警保局長木戸事件報告したこの後木戸参内して昭和天皇食事をしたが、天皇王仁三郎対す評価不明である。敗戦後王仁三郎は「天皇陛下もどうもならんなあ(略)大本あんなにしたのだから仕方がない責任矢張り大将にあるから」と天皇責任指摘した一方で瀬戸内寂聴昭和神聖会弾圧され愛国運動発展した場合王仁三郎は「聖戦」に協力し戦犯になっていた可能性指摘している。 第二次大本事件裁判第一審判決無期懲役言い渡された際、王仁三郎傍聴席向いて舌を出し関係者驚かせている。また裁判中にすみが神懸かり態となって激昂した際には、「これこれと言って妻を宥めた。 山本英輔海軍大将保釈され亀岡戻った王仁三郎水野満年を通じて戦局打開方策尋ねた。他の軍人達質問にも基本的に良い返事をしなかったが、サイパンの戦い天王山になる事は伝えている。戦局絶望的になると多く人々王仁三郎慕って亀岡訪問した敗戦後逸郎弁護士大本事件における賠償請求検討していたところ、「今度事件神さま摂理」として賠償請求権利放棄した。そして「大きな御用のために東京帰りなさい」と告げる。待っていたのは東京裁判弁護人という仕事であった綾部教団敷地に脚を踏み入れた際、桜の木全部切るよう強く命じたダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官について玉音放送直後に「マッカーサれた(負かされた)」と駄洒落にし、「マッカーサーはへそだ。朕の上にある」と冗談にしつつ業績評価していた。さらに『霊界物語』第58巻第1章登場するニコラス大尉は「日本懲らす…でマッカーサーの事」と語っている。

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第二次大本事件

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大本」の記事における「第二次大本事件」の解説

1935年昭和10年)に起きた事件である。不敬罪新聞紙法治安維持法問われた。教団本部建物撤去が行われた。

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