第二次大本事件
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1930年代初頭は満州事変が勃発して中国大陸への軍事進出が本格化、世界大恐慌による大不況、国際連盟の脱退、国内では五・一五事件や右翼団体の蜂起が相次いで発生するなど、不安定な時代だった。大本は1930年(昭和5年)3月8日-5月6日まで京都岡崎公園で開催された大宗教博覧会に参加、大成功を収める。さらに日本全国・沖縄・朝鮮半島・台湾で作品展や講演会、映画上映を行い、大本のイメージ向上に成功した。廃刊になった大正日日新聞にかわり、日刊紙「北国夕刊新聞」(金沢)、「丹州時報(舞鶴)」、「東京毎夕新聞」を買収、人類愛善新聞や街頭演説・講演会で活発に宣伝する。王仁三郎は時代の流れを掴むことに長け、メディアを積極的に利用・活用して成功を収めた破天荒で多才な教祖と言える。 人類愛善会活動やエスペラント運動を通じて満州国を筆頭に海外進出を行う一方、王仁三郎は国民の愛国意識のたかまりを背景に大本の右翼化・愛国化を進める。大本信者を中核とする昭和青年会や昭和坤生会は各地で防空運動を展開し、愛国団体として注目された。1934年(昭和9年)7月22日、王仁三郎は九段会館において精神運動団体「昭和神聖会」を結成し、より大規模な運動に乗り出していった(王仁三郎は統管)。昭和神聖会の発会式には後藤文雄内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した。この他、石原莞爾や板垣征四郎といった急進派の陸軍将校や久原房之助(政治家)も王仁三郎の信奉者であり、あるいは影響を受けている。王仁三郎は大本の指導を日出麿に委任すると、昭和神聖会を指揮するため東京・四谷に移った。農村救済運動を筆頭に、国内外の問題について政府の対応を批判。岡田内閣の打倒さえ訴えたという。さらに「尋仁(世界紅卍字会の檀訓による命名)」と記した制服を着用、東京駅から皇居まで900人を従えて行進を行う。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説に対しては「神聖皇道」の観点から厳しい批判を加えた。王仁三郎は『わが道は 野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った。国家権力を意図的に挑発するような王仁三郎の行動は現代でも解釈が難しく、真意は今もって不明である。逮捕直前、大規模弾圧を予期したかのような指示を周囲に与えた。王仁三郎の肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会、昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった。 詳細は「大本事件」を参照 1935年(昭和10年)1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める。革命の気運に恐怖した日本政府は王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図した。さらに『大本神諭』や『霊界物語』で唱えられた大本の神話・教義が天皇(現人神、天皇制)の権威や正統性を脅かしかねないという宗教的な理由が存在した。同年12月8日、政府は第二次大本事件によって苛烈な攻撃を加えた。唐沢俊樹内務省警保局長は大本を地上から抹殺する方針である事を各方面に指令している。王仁三郎は松江市島根別院で拘束された。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、毎日新聞や朝日新聞などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定する。裁判前にも関わらず、政府は亀山城址にあった神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分した。人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれる。出版物も全て発行禁止処分となっている。孤立無援の王仁三郎は「道鏡以来の逆賊」と糾弾されて特別高等警察により拷問めいた取調べを受けたが、裁判では悠然と反論し、時に裁判長を唸らせることもあった。また満州国指導者層は鈴木検事(大本事件担当)が「紅卍会と大本は極めて密接。満州国の大本教勢力は侮りがたい」と報告したように王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている。だが王仁三郎の後継者と目された出口日出麿は拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した。1940年(昭和15年)2月29日の第一審は幹部全員が有罪で、王仁三郎は無期懲役という判決だった。1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決では高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、重大な意味を持つ治安維持法については全員無罪の判決を言い渡した。不敬罪の懲役5年(最高刑)は残ったものの、6年8ヶ月(2453日)ぶりに71歳で保釈出所となった。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日、敗戦による大赦令で無効になった。1947年(昭和22年)10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。 保釈後、関係の弁護士たちが国家に対する損害賠償請求の訴訟について打ち合わせると、王仁三郎は言下に「今度の事件は神様の摂理だ。わしはありがたいと思っている。今更過ぎ去ったことをかれこれ言い、当局の不当をならしてみて何になる。賠償を求めて敗戦後の国民の膏血を絞るようなことをしてはならぬ」と述べた。また「大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本が戦争している時に、日本の土地に生まれた者が戦争に協力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度の大本事件の一番大きな意義だ。これは大事なことだよ」と述べた。この王仁三郎の発言により、国家に対して一切の賠償を求めないことになり、これを伝え聞いた人々が「ほんとうの宗教家ということが初めてわかった」と感嘆したエピソードがある。
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第二次大本事件
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『霊界物語』の筆記者だった信者によれば、第二次大本事件直前に側近達を集め『霊界物語』全巻セットを各人に配り、熟読するよう告げた。 1928年(昭和3年)3月3日、満56歳7ヶ月の王仁三郎は綾部で「みろく大祭」を挙行、自身が弥勒菩薩・救世主であると宣言した。儀式の最中、王仁三郎はリンゴ3個を取り、妻子や幹部達に大根や頭薯を与える。当局はこの儀式を「国体の変革を目的とした結社を組織し、政権を奪取せんとした陰謀」として治安維持法違反の根拠とした。実際には、検察の論告はこじつけや滑稽話に近かった。王仁三郎は事件後の回顧歌で「大根は何程食ふもあたらねど その反対に人を殺せり」「恐ろしき闇世なるかな大根が 生命を奪るとは前代未聞よ」と詠っている。 事件直前の12月6日、二・二六事件の首謀者・北一輝は王仁三郎に会ってクーデターの資金提供を求めた。王仁三郎に一蹴された北は暗殺を示唆したが、12月8日に王仁三郎が松江で逮捕されて空振りに終わった。後に王仁三郎は「警察に保護されたも同然。北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろう」と語っている。北と共に処刑された西田税の自伝にも大本を研究したことが記されており、資金提供を頼んだのは西田という見解もある。 北一輝は大正8-9年頃に王仁三郎と会見していた。二・二六事件で逮捕された北は当局に対し「変な姿。自分の信仰(独自解釈した法華経)に因る神秘的体験から観ると、大本教は神ではなく相当な邪霊で皇室を滅ぼそうとしている」「断じて大本教と接触しないよう指導した」と王仁三郎について語る。伝記『北一輝-日本的ファシストの象徴』によれば、王仁三郎は自ら希望して北と会見し「ガタガタと震えて北に圧服された」と描写するが、実際は北の方が王仁三郎に手紙を出しており、伝記は北の側のリップサービスである。松本健一は、王仁三郎と北が天皇制国家の内で「天皇=革命」の原理を打ち出して「神の国(もう一つの天皇制国家)」を創造しようとした点で『似たもの同士』と論じた。天皇制国家(大日本帝国)が大本を忌み嫌ったのも当然であったとされる。 王仁三郎と北の会見に同席した大川周明は「出口は下劣で取るに足らぬ奴」と評したが、東京裁判中の1948年(昭和23年)1月21日の日記に「出口王仁三郎死亡」と記述した。 第二次大本事件当日、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して、信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した。当局側は大本の武装蜂起を信じており、水杯を交わしての決死の突入であった。 木戸幸一の日記によれば、1935年12月13日(第二次大本事件、王仁三郎の逮捕から5日後)に唐沢俊樹警保局長が木戸に事件を報告した。この後木戸は参内して昭和天皇と食事をしたが、天皇の王仁三郎に対する評価は不明である。敗戦後、王仁三郎は「天皇陛下もどうもならんなあ(略)大本をあんなにしたのだから仕方がない。責任は矢張り大将にあるから」と天皇の責任を指摘した。一方で瀬戸内寂聴は 昭和神聖会が弾圧されず愛国運動が発展した場合、王仁三郎は「聖戦」に協力し戦犯になっていた可能性を指摘している。 第二次大本事件裁判の第一審判決で無期懲役が言い渡された際、王仁三郎は傍聴席を向いて舌を出し関係者を驚かせている。また裁判中にすみが神懸かり状態となって激昂した際には、「これこれ」と言って妻を宥めた。 山本英輔海軍大将は保釈され亀岡に戻った王仁三郎に水野満年を通じて戦局打開の方策を尋ねた。他の軍人達の質問にも基本的に良い返事をしなかったが、サイパンの戦いが天王山になる事は伝えている。戦局が絶望的になると多くの人々が王仁三郎を慕って亀岡を訪問した。 敗戦後、林逸郎弁護士が大本事件における賠償請求を検討していたところ、「今度の事件は神さまの摂理」として賠償請求の権利を放棄した。そして「大きな御用のために東京に帰りなさい」と告げる。林を待っていたのは東京裁判の弁護人という仕事であった。 綾部の教団敷地に脚を踏み入れた際、桜の木を全部切るよう強く命じた。 ダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官について玉音放送直後に「マッカーサれた(負かされた)」と駄洒落にし、「マッカーサーはへそだ。朕の上にある」と冗談にしつつ業績を評価していた。さらに『霊界物語』第58巻第1章に登場するニコラス大尉は「日本を懲らす…でマッカーサーの事」と語っている。
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第二次大本事件
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1935年(昭和10年)に起きた事件である。不敬罪、新聞紙法、治安維持法に問われた。教団本部の建物撤去が行われた。
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