第二次大戦終結まで
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「ゴータ車両製造」の記事における「第二次大戦終結まで」の解説
ヴェルサイユ条約によって航空機製造が禁止された為、鉄道車両やディーゼルエンジンの製造へもどり、ベルリン地下鉄へC-II形電車(de)を納入するなど発展を続けていった。 1933年10月に航空機製造部を再建し、ハインケル He 45、He 46のライセンス生産から開始し、1934年には自社設計機のGo 145初歩練習機が初飛行。この機体は大成功で他社にも生産を依頼し約10,000機生産され、スペインとトルコではライセンス生産が行われている。Go 242貨物グライダーやGo 244等を生産する一方、他社製品のライセンス生産にも力をいれ、Bf 110だけでも3,000機あまり生産している。
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第二次大戦終結まで
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アイヌが先住しており、17世紀後半にはメナシクルの勢力がのびた。 1635年(寛永12年)、松前藩は藩士に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成。 1643年(寛永20年)、オランダ東インド会社の地理学者マルチン・ゲルリッツエン・フリースは、ウルップ島に上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名し、択捉島は「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付け、国後島に上陸した。 1644年(正保元年)、『正保御国絵図』にエトロホと記された島があり、択捉島が日本地図に記載された最初とされている。 1661年(寛文元年)『勢州船北海漂着記』にはに伊勢国松坂の七郎兵衛の船が漂流の末に同島に到達していたこと、『恵渡路部漂流記』には1712年(正徳2年)に薩摩国大隅の船が同島に漂着していることについての記述がある。 1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加は自藩領」と報告。 1731年(享保16年)、国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。 1754年(宝暦4年)松前藩によって家臣の知行地として開かれた国後場所に属する。当初、国後場所の領域には択捉島や得撫島も含まれていた。場所請負制も参照。ロシア人の足跡としては、1766年(明和3年)にウルップ島のイワン・チョールヌイ(Иван Черный)が、同島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てているのが、文献上でのロシア人最初のものである。さらに、その10年後には、ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからサヤークを受け取っている。 1771年(明和8年) - 「択捉島のアイヌ」と「羅処和島のアイヌ」が団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する。 1786年(天明6年)に最上徳内が同島を探検した際の上陸時に、ロシア人同士のトラブルにより取り残された3名の在留ロシア人がおり、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている(ロシアでは、国家に帰属し納税意識をもたせるため、進出した地で正教の布教がなされていた)。ただし、在留ロシア人たちは1791年までに帰国した。 1798年(寛政10年)、同島を影響下に置く意図をもつロシアに対抗するため、近藤重蔵がアイヌのエカシ(乙名)の了承のもと、日本領を示す「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。その翌年には蝦夷地を幕府直轄領(天領)にし、高田屋嘉兵衛に航路を運営させる。 1800年(寛政12年)には国後場所から新たに択捉場所が分立し、「エトロフ会所」を振別に開設したほか、役職のあるアイヌ(役蝦夷)が住民1,118人を調べ恵登呂府村々人別帳(戸籍)を作成した(場所請負制成立後の行政も参照)。さらに高田屋は老門に番屋を建て、漁場10か所を開き和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれていった。 1807年(文化4年)4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ(ロシア語版)(Хвостов)率いる露米会社の武装集団によって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。紗那は、弘前藩と盛岡藩が警固を行っていたが、火力の差に圧されて奥地へ退避している。なお、会所に赴任中だった間宮林蔵も参戦し、徹底抗戦を主張している。この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた。その後も、盛岡藩など東北諸藩が警備にあたった。 1816年(文化13年)、日本人の漂流民を乗せたロシア船パヴェル号が択捉島に来航、このとき督乗丸の小栗重吉、音吉、半兵衛の3名が帰国。 1821年(文政4年)、択捉島をふくむ東蝦夷地が松前藩に返還される。 1855年(安政2年)、日露和親条約が締結される。この時日本はアイヌを日本国民としたうえで、アイヌの生活圏が日本領であると主張し、同島の領有をロシアに認めさせた。開国後は幕府によって上知され、幕府領となり、警固は仙台藩に任された。1859年(安政6年)、同島は仙台藩の領地となり、仙台藩兵が駐留し警固した。 1869年(明治2年)、蝦夷地を北海道に改称。開拓使が置かれる。旧暦8月15日(9月20日) 北海道11国が置かれた際、千島国5郡が制定される。択捉島も千島国に属し、択捉郡、振別郡、紗那郡、蘂取郡が置かれる。また、同年7月から道外の複数の藩によって北海道の分領支配が行われる。択捉島は仙台藩、彦根藩、佐賀藩、土佐藩によって分領支配された。 1871年(明治4年)旧暦7月14日(8月29日)、廃藩置県。 旧暦8月20日(10月4日)、北海道の分領支配の廃止。全域が開拓使の管轄となる。 1923年(大正12年)、北海道二級町村制が施行される。択捉郡留別村、紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村の3郡3村が設置され、紗那村の中心地である紗那が同島の中心地となって、警察署、小学校、郵便局などの官公署が置かれた(現在も日本の制度上は、この3郡3村は存続している)。周辺は、親潮(千島海流)と黒潮(日本海流)とがぶつかる海域であって、水産資源が豊かである優良な漁場であったので、漁業が主たる産業となり、入植者が増加した。 1930年(昭和5年)最上徳内らが設置した寛政12年の標柱が朽ち果ててしまったため、北海道庁が蘂取村村長の大沢さんに新しく作り直す事を依頼した。この時、国境が定まっていたので御影石で記念碑を作る事にした。本土に発注して出来上がった御影石の記念碑は蘂取村から船で運搬、択捉島島民の手によって(主に公務員)人力で択捉島蘂取村カモイワッカ岬に『大日本恵登呂府』昭和の記念碑を立てた。 1940年(昭和15年)、海軍が飛行場を整備し始める。 1941年(昭和16年)11月20日、海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。そして情報統制下の単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結、真珠湾攻撃のため11月26日にハワイへ向け出港していった。この島外との徹底した情報の遮断は太平洋戦争が開戦した12月8日まで続けられた。 1944年(昭和19年)、千島方面防衛のため、天寧に陸軍第27軍司令部が新設され、海上機動第4旅団と独立混成第43旅団が編成される。 1945年(昭和20年)に入ると本土決戦準備のため、海上機動第4旅団含め千島列島から多くの部隊が内地に転用される。終戦時には第89師団が配置されていた。8月15日当時、留別村2,258人 紗那村1,001人 蕊取村349人の合計3,608人の住人が、択捉島に居住していた。
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