第二次大火後の都市計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 23:14 UTC 版)
22日に現地入りした建設省の建設課長、技官らにより、ただちに区画整理案の作成に着手された。わずか1日で設計図を完成させると、翌23日の市議会全員協議会にその大綱を報告した。その概要は、被災区域約95,200坪(およそ31.5ha)を含む約12万坪(39.7ha)を対象として区画整理を実施、市街地にあった寺院を市街西方の萩の台地区(後に風の松原と命名されることになる国有林の東隣)に移転、その跡地を換地操作地とし、また道路拡幅を行う。家を失った人たちのために市営住宅300戸を建設するといった内容であった。道路拡幅については、第一次大火の後幅30mの道路となった畠町通りの拡幅区間を南へ伸ばし、金子の坂(能代駅近く)まで延長。柳町新道(現在の国道101号)も両側を拡幅して30m道路とした。また、能代駅前から萩の台方面へ直線道路を伸ばし、柳町通りも畠町通りに直結できるようにした。さらに、大型の30m道路、18m道路の間は、細街路となる8mまたは6m道路により、碁盤の目で区切るようにした。この原案は議会でも直ちに可決され、2ヶ月後には仮換地が完了、9月22日には区画整理が完了した。 また、二度の大火という代償を経て、ようやく能代市でも上水道が整備されることとなった。上水道の要望は戦前からあったもので、1954年(昭和29年)6月には事業認可を受けているが、財政事情から延び延びとなっていたものである。しかし、二度目の大火はもはや猶予を許さなかった。能代市では東京都水道局の顧問であった工学博士小野基樹を最高顧問として水道の実施設計を依頼、米代川から取水した水を市街地南方の臥竜山に設けられた浄水場まで導水し、自然流水によって各家庭まで送る方式が採用された。起工式は1956年(昭和31年)11月28日に行われ、1958年(昭和33年)6月13日に通水式が行われた。
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