第二次大院君政権
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「旧軍」と称された従来からの兵士は、開化派が創設した新式軍隊(別技軍)と比較して様々な点で差別的に待遇されて不満をつのらせていたところに、1882年には俸給米も遅配し、ようやく13か月ぶりに支給された俸給米にも支給係の不正によって異物が混入するという事件が起こった。これは、「旧軍」兵士の反乱(壬午軍乱)を引き起こし、不正支給の告発者を罰した閔謙鎬の邸宅、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使陣営、日本公使館などが襲撃され、別技軍の教官だった堀本礼造少尉が殺害された。下層民を加えて勢力を増した軍兵は、官庁、閔妃一族の邸宅などを次々に襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応を邸宅にて殺害し、昌徳宮にも侵入して閔謙鎬、金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を殺害した。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする興宣大院君の教唆煽動によるものであった。閔妃は高宗を王宮を置き去りにして朝鮮南部の忠州に逃亡し、高宗は政権を興宣大院君に委ねた。 ここに第二次大院君政権が成立し、9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した。 興宣大院君は、統理機務衙門を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、自身の腹心を要職に就けた。しかし、一方で軍乱は日清両国軍の派兵をまねいた。 軍乱発生から約1か月後の1882年8月26日(朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった。興宣大院君の排斥と国王の復権という基本方針は清国北洋大臣代理職にあった張樹声の指示とみられるが、大院君の軟禁は清国より派遣された馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍におびき出された大院君は捕捉され、朝鮮の南陽湾から河北省天津に連行された。連行理由は、清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王に対する裏切りであり、皇帝を蔑ろにする所行であるというものであった。清国軍はまた、漢城府東部の往十里、南部の梨泰院を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を多数殺傷した。こうして第二次大院君政権は約1か月というごく短期間で終結し、その後は閔妃が忠州より帰還して閔氏政権が復活、朝鮮は清国の強い干渉のもとでの開化政策へと転じた。
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