第二次大院君政権とは? わかりやすく解説

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第二次大院君政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:21 UTC 版)

大院君政権」の記事における「第二次大院君政権」の解説

旧軍」と称され従来からの兵士は、開化派創設した新式軍隊別技軍)と比較して様々な点で差別的待遇されて不満をつのらせていたところに1882年には俸給米も遅配し、ようやく13か月ぶりに支給され俸給米にも支給係の不正によって異物混入するという事件が起こった。これは、「旧軍兵士反乱壬午軍乱)を引き起こし、不正支給告発者を罰した閔謙鎬邸宅首都治安維持責任を負う京畿観察使陣営日本公使館などが襲撃され別技軍教官だった堀本礼造少尉殺害された。下層民を加えて勢力増した軍兵は、官庁閔妃一族邸宅などを次々襲撃し、前領議政総理大臣)の李最応邸宅にて殺害し昌徳宮にも侵入して閔謙鎬金輔鉉閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名殺害した。これは、反乱乗じて閔妃などの政敵一掃し政権を再び奪取しようとする興宣大院君教唆煽動よるものであった閔妃高宗王宮置き去りにして朝鮮南部忠州逃亡し高宗政権興宣大院君委ねた。 ここに第二次大院君政権が成立し9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策一挙に推進した興宣大院君は、統理機務衙門廃し、3軍府復活復活して旧来の5軍営もどしたほか、両営・別技軍廃止した。そして、閔氏とその係累政権から追放する一方閔氏政権によって流罪処せられていた衛正斥邪派人びと赦免し、また監獄にあった者の身柄解放して自身腹心要職就けた。しかし、一方で軍乱は日清両国軍の派兵まねいた。 軍乱発生から約1か月後の1882年8月26日朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧日本公使護衛名目派遣され漢城駐留清国軍によって大院君拉致事件起こった興宣大院君排斥国王復権という基本方針清国北洋大臣代理にあった張樹声指示とみられるが、大院君軟禁清国より派遣され馬建忠丁汝昌呉長慶の3名によって計画されたものであった朝鮮王宮はじめ漢城城門清国兵によって固められ清国軍におびき出され大院君捕捉され朝鮮南陽湾から河北省天津連行された。連行理由は、清国皇帝冊封した朝鮮国王しりぞけて政権をみずから奪取するのは国王対す裏切りであり、皇帝蔑ろにする所行であるというものであった清国軍はまた、漢城府東部の往十里南部梨泰院攻撃して反乱参加した兵士住民多数殺傷した。こうして第二次大院君政権は約1か月というごく短期間終結しその後閔妃忠州より帰還し閔氏政権復活朝鮮清国の強い干渉のもとでの開化政策へと転じた

※この「第二次大院君政権」の解説は、「大院君政権」の解説の一部です。
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