第二次天正伊賀の乱とは? わかりやすく解説

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第二次天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:58 UTC 版)

天正伊賀の乱」の記事における「第二次天正伊賀の乱」の解説

天正9年1581年4月、上柘植福地伊予守宗隆、河合村耳須弥次郎具明の2人安土城信長の所に訪れ伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。 そして再び織田信雄総大将5万の兵で伊賀国侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄柘植口から丹羽長秀滝川一益玉滝口から蒲生氏郷脇坂安治笠間口から筒井順慶初瀬口より浅野長政多羅尾口から堀秀政多羅弘光攻撃した記述されている)同月6日より戦闘開始された。伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲掛け、氏郷隊は寝込み襲われ敗れた筒井順慶隊にも夜襲掛け1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺攻撃し退けられるが滝川一益援軍得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。しかし、総攻撃前日全ての城兵柏原城逃亡したその後内応者が出た事もあり(伊賀衆織田方の調略を受け、連携欠いていた)、織田軍は各地進撃し同月11日にはほぼ伊賀国制圧した寺院焼き払われ住民殺害された(平楽寺では僧侶700余り斬首伊賀全体では9人口の内非戦闘員含む3万余殺害された)。 奈良大倉五郎次という申楽太夫柏原城来て和睦仲介入り惣名代として滝野吉政28日早朝に信雄に会って城兵人命保護条件和睦行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時伝聞集めた記録として信頼性は高い。 この柏原城開城した時点をもって天正伊賀の乱終わりを告げた残党捕縛され殺されたが、多く指揮官他国逃げほとぼり冷めた頃に帰国した

※この「第二次天正伊賀の乱」の解説は、「天正伊賀の乱」の解説の一部です。
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