織田信包に仕えるとは? わかりやすく解説

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織田信包に仕える

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 02:19 UTC 版)

分部光嘉」の記事における「織田信包に仕える」の解説

家督継いだ光嘉は、織田信包仕え奄芸郡中山村現在の三重県津市栗真中山町)の中山城居城としていた。信包は、安濃津城完成するまでの仮城として元亀2年1571年)に奄芸郡上野村現在の津市河芸町上野)に上野城築いて入城したが、上野城安濃津城などの築城指揮あたったのが光嘉であるという。天正8年1580年)、信包が完成した安濃津城に移ると、光嘉は上野城となった。もともと中山村にあった臨済宗東福寺派圓光寺は、光嘉が中山城から上野城移った際に上野現在地移転し分部家菩提寺としたという。 織田信包従った光嘉は、天正9年1581年)の第二次天正伊賀の乱功績挙げた本能寺の変後織田信包羽柴秀吉に従っており、光嘉は松ヶ島城戦い家康織田信雄方の滝川雄利籠る松ヶ島城を、秀吉方が攻めた戦い)でも武功があった。 『寛政重修諸家譜によれば、光嘉の活躍富田知信富田一白)や津田四郎左衛門津田盛月)を通して秀吉の耳にも届き、また徳川方援軍として松ヶ島城派遣され服部正成からも家康報告されたという。徳川家康伊勢国出馬した際に光嘉を味方誘ったが、光嘉は「分部家代々長野家に仕えてきたので、信包を補佐してその家を興したい」と返答したとされ、のちに信包の家が衰えた際に再度働きかけた際にも答えは同じであったという。

※この「織田信包に仕える」の解説は、「分部光嘉」の解説の一部です。
「織田信包に仕える」を含む「分部光嘉」の記事については、「分部光嘉」の概要を参照ください。

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