比自山城の戦いとは? わかりやすく解説

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比自山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/16 09:34 UTC 版)

比自山城の戦い
侵攻ルート

戦争第二次天正伊賀の乱
年月日天正9年(1581年
場所伊賀国比自山城
結果
第一戦 - 伊賀衆の勝利
第二戦 - 伊賀衆の勝利
第三戦 - 城兵らは柏原城へ逃走、直接の戦闘なし
交戦勢力
織田軍 伊賀惣国一揆
・伊賀十二人衆
伊賀衆
指導者・指揮官
第一戦
蒲生氏郷
脇坂安治
堀秀政
筒井順慶
筒井定次
浅野長政
第二戦
筒井順慶
筒井定次
中坊忠政
松倉豊後守
第三戦
蒲生氏郷
脇坂安治
丹羽長秀
滝川一益
滝川雄利
堀秀政
筒井順慶

浅野長政
第一戦第二戦
百田藤兵衛
富岡秀行
森四郎
高田郷助
町井貞信
福喜多将監
横山甚助
村田勘四郎
新八右衛門
第三戦
なし
戦力
10,000 - 13,000人 3,000 - 4,000人
損害
1,900以上、松倉豊後守・安藤将監討死 不明、撤退時の追撃による被害甚大

比自山城の戦い(ひじやまじょうのたたかい)とは天正9年(1581年)の織田信長伊賀攻めの際の伊賀惣国一揆と織田軍による戦いのことである。

経緯

傀儡守護を擁立する

伊賀国鎌倉時代より中小豪族の割拠する時代が続き、戦国時代に入ってもなお群雄割拠の状態だった。しかし周辺の戦国大名北畠家三好氏六角氏など)が頻繁に干渉してくるようになると、組織的に対抗できるよう諸豪族らは有力国人の伊賀十二人衆を評定衆として連合を結成した(伊賀惣国一揆)。

十二人衆の一人の町井貞信は連合結成に当たって一時伊賀衆により滅ぼされていた伊賀国守護・仁木義視を名目上の君主として擁立した(室町時代足利義稙により守護として任じられた仁木兵部少輔は柘植氏により討たれ滅ぼされた)。

しかしこの頃尾張国から織田氏が台頭してきており、義視は織田信長に援助を求めた。義視は織田氏の武力を背景に伊賀を統治しようとしたが豪族たちは従おうとせず、先述の仁木兵部少輔のように挙兵したが敗れ天正6年(1578年)に信楽へ追放され仁木氏は滅亡した。

第一次天正伊賀の乱

やがて伊賀のすべての隣国が信長に平定されると、織田氏からは頻繁に臣従するよう圧力が掛かった。そんな中、信長の次男で三瀬の変で北畠家を乗っ取っていた北畠信意(のちの織田信雄)は、自らの力だけで伊賀を平定すれば父に功を称されるだろうと考えていた。信意は家老柘植保重の進言と伊賀衆の一人である下山甲斐守の内通により伊賀侵攻を決意し、まず滝川雄利丸山城の再建を命じた。しかし丸山城は伊賀衆に奇襲され焼き払われた。これに激怒した信意は柘植に1,500人、自らは8,000人の手勢を率いて3方から伊賀に侵攻した。しかし伊賀衆の激しい抵抗により殿軍の柘植保重と約6,000の兵が討ち死にするなど大敗を喫した。これについて信長は「自らの力で平定すれば功を称されるだろうという考えは若気の至りであり、父・信長の許可無く攻め込むとは許し難い」として信意を蟄居させた(『信長公記』)。また、この敗戦を期として信意と下山甲斐守の間も不和となり、信意は下山に蟄居を命じた。

比自山城の戦い

第二次伊賀侵攻

織田信長石山本願寺との講和が成立すると、かつて自身の息子の北畠信意に苦汁を舐めさせた伊賀衆の平定に乗り出した。その時、伊賀衆の耳須弥次郎、福地宗隆が裏切って伊賀攻略の際は案内役を務めると申し出てきた[1]。そして天正9年(1581年)、安土城に北畠信意、織田信澄滝川一益丹羽長秀蒲生氏郷筒井順慶定次父子(養子関係)、脇坂安治浅野長政堀秀政滝川雄利不破光治らを集めて信意を総大将に任命。今度は自らが安土城から指揮することにした。間もなく集まった45,000人の兵で織田軍は出発。四方八方から伊賀に侵攻した(『信長公記』)。

伊賀衆の動向

この報を聞いた伊賀衆は百田藤兵衛の呼びかけで平楽寺に集合し評定を開いた[1]。「勝てぬ戦はすべきでない」や「ここで降伏すれば家名を汚すことになる」など延々と議論が続いた結果、「勝つことは絶対に不可能ではあるものの、ここは心置きなく戦い討ち死にしよう」と結論がまとまった。その後女子供関係なく石を運んで一晩で城を比自山に完成させた[2][3]

織田軍の動向

北畠信意・滝川雄利・日置大膳亮

信意は伊勢国より軍を進め、東禅寺(現いなべ市)を占領し陣を構えた。ここで信意は手勢を3つに分け、滝川雄利に3,000人、日置大膳亮に3,000人を率いさせ、自らは4,000人を率いて侵攻した[3]久昌寺大村神社、猪田神社などを焼き払いつつ山の中に隠れている住民を虱潰しに殺していった[3]極楽寺の本尊は雄利により松ヶ島城へ運ばれ戦火を免れた。信意はその後小波田砦を落として比自山へ向かった。

丹羽長秀・滝川一益

丹羽長秀は北方より福地宗隆の案内で侵攻し、伊賀で唯一石垣造りであった[2]福地氏城に入った。そこから柘植郷に侵入し僅か半日で上柘植、中柘植、下柘植を平定した。柘植の豪族らは圧倒的な兵力を持つ織田勢に怯え、山中に逃げ込んでいった[3]

滝川一益は丹羽と柏野城を落とした後新堂へ兵を進め、当時は伊賀衆の評定場や鉄砲の産地であった長橋寺あたりで激戦となった。ここで伊賀衆は敗北し、長橋寺を焼いた一益は中村丹後守の篭る春日山城へ攻撃をかけた[3]。しかし中村の巧みな指揮と城の堅さに攻めあぐね、丹羽と共に大山田へ迂回した。これにより丹羽・滝川らは比自山城攻めに遅れることとなる[3]

蒲生氏郷・脇坂安治

蒲生氏郷脇坂安治は耳須弥次郎の案内のもと、7,000人の兵で伊賀に攻め込んだ。両者は玉滝寺に本陣を構え、下鞆田の雨請山城にて藤林長門守と交戦した。雨晴山城は最初のうちはよく防いだが、日没が近づくと弾丸や矢が尽き落城した。この後の長門守の動向は不明。また案内役の耳須は植田光次の命を受けた土民(小田村の与助と左八)に暗殺された[1]

佐那具まで兵を進めた氏郷は本陣を構え祝宴を開いたが、そこを伊賀衆に奇襲されて兵は混乱した。しかし次の日には陣を立て直し、平楽寺へ向かった。しかしここに篭っていたのは僧兵のみで、他の豪族らは比自山へ詰めていた。そのため平楽寺は半日足らずで落城し、中にいた人間は斬られた。次に氏郷は町井左馬充(町井貞信の父)の篭る館へ攻勢をかけた。左馬充は妻のお清と共に館より討って出て多数の敵兵を討ち取ったけれども、ついに夫妻ともども力尽きた。織田勢はお清のことを「伊賀には惜しき名花よ」と賞し、町井左馬充夫妻の遺骸を手厚く葬った[1]

堀秀政

堀秀政は多羅尾光弘の案内で多羅尾口より2,300人の兵で伊賀に進行、島ヶ原へ兵を進めた。しかし伊賀衆の中でも島ヶ原の豪族達は織田氏への抵抗が無益であると考え、織田勢との和平を唱えていた。秀政も光弘を通じて島ヶ原の豪族の意向をつかんでいたため、乱暴をせぬよう兵を進めた[3]。そこで島ヶ原の16人の豪族は秀政の陣を訪れ、「当地には聖武天皇によって天平2年(730年)に創建された観菩提寺(正月堂)を中心とする七堂伽藍十二僧坊のほか、数々の名寺院が残されています。これらを焼いてしまっては先祖に顔向けできません」として和平を求めた[3]。秀政はこれを許し、島ヶ原には一切放火せず次の標的である西山郷へ兵を進めた。

その後、秀政は西山へ入ると態度を一変させ、寺社を焼き払い始めた。この時に伝説が残されており、高倉神社に放火しようとした際、突然一人の子供が現れた。その子供はひらひらと空中を飛んで放火した火を消してしまい、それを見た林三郎なる武者が斧で切りつけるとその斧は三郎に跳ね返って三郎は即死した。これを見た織田勢は手を合わせて退散したという。高倉神社の本殿は現存しており、その柱には三郎によるものと伝えられる傷がある[3]

筒井順慶・定次

筒井順慶定次父子は3,700人の兵で大和口から侵入し、すぐに周囲の村々を焼き始めた。しかし滝野吉政の命により住人らは比自山へ逃れており、戦闘は無かった[3]

次に父子は菊岡丹波守の篭る菊池氏城へ攻撃をかけた。圧倒的な兵力差に菊池は城より逃れて比自山城へ向かった。

比自山城の戦い

第一戦

伊賀衆が突貫工事で比自山に城を築いたと聞いた蒲生氏郷滝川一益丹羽長秀の到着を待たず攻撃を決意、筒井順慶定次父子は兵力を頼りにへ突撃したが数多の石矢を浴びせられ潰走した[3]搦手門の風呂ヶ谷から攻め上がろうとした氏郷隊は町井貞信と福喜多将監に猛攻を加えられ怯み、この状況を打破しようとした安藤将監は突撃するが福喜多将監にを射られ倒れたところを討ち取られた[3]。定次は自ら先頭に立って突撃するが百田藤兵衛に猛攻を加えられ再び潰走した[3]。これを見た蒲生氏郷と堀秀政は退却を促す鐘を鳴らして織田勢は退却した。

第二戦

第一戦の勝利で勢いに乗った伊賀勢は夜襲をすることにし、八幡宮(長岡山)付近で野営していた筒井勢に夜襲をかけた。あまりの勢いに順慶は「もはやこれまで」と腹を切ろうとしたが伊賀出身の家臣・菊川清九郎の必死の説得により敗走した。この戦いで中坊忠政が重傷を負い、松倉豊後守は行方不明、兵力の半数を筒井勢は失った[3]

第三戦

伊賀勢は兵糧庫であった平楽寺を焼き払われたため兵糧に乏しくなる。そこで伊賀勢は柏原城へ逃走して滝野勢と合流することに決し、ひそかに比自山城を脱出した。翌日に織田勢は比自山城の総攻撃を決行し、一気に城内に流れ込んだものの、そこはすでにもぬけの殻となっていた。織田勢を率いていた丹羽長秀や筒井順慶は徹底的な伊賀勢の追撃と掃討を命じた。家族で大和国に逃れていた人々をも殺すなど追撃は残酷を極め、結果的に柏原城へ無傷で到着できたのは僅かであったという[3]

その後

その後の伊賀勢は組織的に抵抗できなくなり、北畠信意に蟄居を命じられていた下山甲斐守は国見城にて伊賀勢に加勢し玉砕した[3]。その後森田浄雲が挙兵したが衆寡黙敵せず討ち死にした。その後百地丹波も挙兵したものの破れ、以降の動向は不明(高野山で謹慎すると偽って根来衆に入ったという説や、討ち死にしたという説、名張に住み続けたという説など諸説あり定まらない)。

最終的に柏原に篭っていた伊賀勢は滝野吉政の嫡男・滝野亀之助を人質とするという条件で開城し、城は順慶が接収した。ここを以って天正伊賀の乱は終結した。

参考文献

  • 『伊賀・大和・熊野 つゝ井筒歴史遊歩』- 第一章 安土の巻
  • 『校正伊乱記』
  • 『三国地誌』

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d 『校正伊乱記』
  2. ^ a b 『三国地誌』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『伊賀・大和・熊野 つゝ井筒歴史遊歩』- 第一章 安土の巻



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