傀儡守護を擁立する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/16 09:34 UTC 版)
「比自山城の戦い」の記事における「傀儡守護を擁立する」の解説
伊賀国は鎌倉時代より中小豪族の割拠する時代が続き、戦国時代に入ってもなお群雄割拠の状態だった。しかし周辺の戦国大名(北畠家、三好氏、六角氏など)が頻繁に干渉してくるようになると、組織的に対抗できるよう諸豪族らは有力国人の伊賀十二人衆を評定衆として連合を結成した(伊賀惣国一揆)。 十二人衆の一人の町井貞信は連合結成に当たって一時伊賀衆により滅ぼされていた伊賀国守護・仁木義視を名目上の君主として擁立した(室町時代に足利義稙により守護として任じられた仁木兵部少輔は柘植氏により討たれ滅ぼされた)。 しかしこの頃尾張国から織田氏が台頭してきており、義視は織田信長に援助を求めた。義視は織田氏の武力を背景に伊賀を統治しようとしたが豪族たちは従おうとせず、先述の仁木兵部少輔のように挙兵したが敗れ天正6年(1578年)に信楽へ追放され仁木氏は滅亡した。
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