仁木義視とは? わかりやすく解説

仁木義視(にき よしみ) ????~????

○友
 伊賀守護として、1571年織田信長支援を受け、伊賀入国。しかし、国内割拠する土豪をまとめきれずに、その反抗遭い1578年伊賀追放され甲賀逃れた

仁木友梅

(仁木義視 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 10:05 UTC 版)

仁木 友梅(にっき[1] ゆうばい、生没年不詳[2])は、安土桃山時代武将医師地誌類によると通称左京大夫義視とされる[3]については友梅軒、有梅軒、祐梅軒、梅軒とも[4][2]伊賀国守護仁木長政は兄とみられる[5][2]

略歴

伊賀守護・仁木長政の動向が分からなくなる頃より、友梅は史料に現れる[5]

天正4年(1576年)3月7日、津田宗及の朝会に「伊賀之にんき殿之弟梅有軒」が参加しており(『津田宗及自会記』)、「伊賀之にんき殿」は仁木長政、その弟の「梅有軒」は友梅と考えられる[6]

天正9年(1581年)の伊賀平定後、織田信雄に取り立てられ、平楽寺を与えられた(『武家事紀』)[5]。翌天正10年(1582年)に本能寺の変が起きると伊賀で一揆の蜂起が起こり、友梅は信雄にそれを知らせて援軍を要請した[7][2]

伊賀の隣国・大和にある興福寺多聞院の『多聞院日記』では、天正11年(1583年)10月17日条に「祐梅軒」として現れて以降、友梅の名が頻繁に見える[8][注釈 1]。『日記』からは友梅が医者として活動していることが分かり、天正14年(1586年)の1月から2月にかけて、織田信包の娘の診療のために伊勢へと赴き、病を完治させて戻ってきている[9]

『多聞院日記』によると、友梅の養子として「仁木殿」の娘がいたが、天正13年(1585年)2月、日野蒲生氏に預けていたところを、美人であったためか筒井定次に側室として取られたという[10]。また、友梅には天正12年(1584年)時点で13歳の二位という息子がいた[11]。天正16年(1588年)、友梅は伊勢に暮らしており、同年5月6日に「有梅軒」は伊勢から来て、5月20日に二位とともに伊勢へと帰った(『多聞院日記』)[11]。これ以後の友梅の消息は不明となる[11]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 和田 (2021, pp. 26, 215) より。ただし同書には「十一月十七日条」とある。

出典

  1. ^ 和田 2021, pp. 29–30.
  2. ^ a b c d 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、321頁。ISBN 978-4-642-01457-1 
  3. ^ 和田 2021, pp. 26, 215.
  4. ^ 和田 2021, pp. 26–27, 215–216.
  5. ^ a b c 和田 2021, p. 26.
  6. ^ 和田 2021, pp. 25–26, 215.
  7. ^ 和田 2021, pp. 26, 194.
  8. ^ 多聞院日記 三』三教書院、1936年、311頁。
  9. ^ 和田 2021, pp. 27, 216.
  10. ^ 和田 2021, p. 27.
  11. ^ a b c 和田 2021, p. 216.

参考文献




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「仁木義視」の関連用語

仁木義視のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



仁木義視のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの仁木友梅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS