第二次安城合戦とは? わかりやすく解説

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第二次安城合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:51 UTC 版)

安城合戦」の記事における「第二次安城合戦」の解説

天文12年1543年正月広忠後見務めていた松平信孝は弟の松平康孝岩津松平家松平親長遺領押領するなど、権勢増しており宗家凌ぐ程になっていた。譜代家臣阿部氏本多氏は、信孝を快く思わず、広忠に信孝の排除進言する広忠自身岡崎帰還支援者である信孝の排除積極的ではなかったが、重臣進言には抗することができず、信孝を年賀使いとして駿府に送ると、そのまま追放して信孝の領地押収した。信孝は叛心のないことを広忠訴えて許し請い今川義元仲裁依頼するが、反信孝派の家臣和解拒絶し、これをみた義元仲裁放棄した。これらの仕打ち激怒した信孝は松平忠倫酒井忠尚とともに織田氏与し山崎城を築く(現在の安城市山崎町神明社、なお当時呼称大岡城だった)。山崎城安城城西北方向碧海台地の端の小高い丘に位置し岡崎城までは見渡す限り低地続いていた。そのため見通し利き、敵の侵入路兵力把握できるので、安城城出城として重要な役割果たしていた。また安城城湿地ではない西北側が弱点であり、山崎城にはこれを補完する意味もあった。なお、松平信孝動きに信孝の仲介広忠婚姻同盟結んだ水野信元同調したとする指摘もあり、結果的にはこれが広忠於大の方離縁つながったとされている。また、今川義元広忠と信孝の仲介放棄した後も信孝陣営との関係が続いていたとみられ、信孝や信元織田方についたからと言って直ち今川方と敵対した訳では無いことに注意要する天文14年1545年9月広忠美濃侵攻した織田勢の敗報聞くと、安城城奪還のため出陣する(兵数不明)。 松平勢は安城城信秀到着していないと思い込んだ上に、敗戦後で敵の士気低く、それに加えて地理理解では自分達に分があるとして完全に油断していた。対す織田勢(城兵600余人援軍兵数不明)は、当時最新兵器であった火縄銃投入し信秀指揮する援軍も城に入れず城外巧妙に配置するなど万全の態勢で臨んだ投入され火縄銃少数だった事と松平勢の大多数火縄銃そのもの知らなかったため、撹乱成功しなかった)。 両軍安城城近辺の清(勢井)縄手激突した松平勢は織田勢に背後から攻撃され初め援軍到着知り、これを叩こうとするが、この隙を突いて城兵打って出たために挟撃を受ける。退路を断たれることを恐れた家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、広忠聞き入れず突撃敢行する。しかし、信秀が在陣している事が松平中に知れ渡ったために兵は動揺し軍勢二つ分断され退路を完全に断たれた。広忠自己の安全も絶望視されるなか討死決意するが、重臣本多忠豊本多忠勝祖父)がそれを諌め広忠身代わりとなって敵本深く突撃した事で織田勢の注意を引く事に成功し広忠生き残った松平勢は岡崎城へと退却することができた。しかし、身代わりとなった本多忠豊はこの地で討死する。この敗戦の後、広忠松平家次松平清定の子)や酒井忠尚籠る上野城攻撃する敗北した上野城岡崎城北西方面から望む要地であったこのころ松平宗家地位は完全に凋落し今川氏への依存はますます強くなることになる。

※この「第二次安城合戦」の解説は、「安城合戦」の解説の一部です。
「第二次安城合戦」を含む「安城合戦」の記事については、「安城合戦」の概要を参照ください。

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