第二次安城合戦
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天文12年(1543年)正月、広忠の後見を務めていた松平信孝は弟の松平康孝と岩津松平家の松平親長の遺領を押領するなど、権勢を増しており宗家を凌ぐ程になっていた。譜代家臣の阿部氏や本多氏は、信孝を快く思わず、広忠に信孝の排除を進言する。広忠自身は岡崎帰還の支援者である信孝の排除に積極的ではなかったが、重臣の進言には抗することができず、信孝を年賀の使いとして駿府に送ると、そのまま追放して信孝の領地を押収した。信孝は叛心のないことを広忠に訴えて許しを請い、今川義元に仲裁を依頼するが、反信孝派の家臣は和解を拒絶し、これをみた義元も仲裁を放棄した。これらの仕打ちに激怒した信孝は松平忠倫、酒井忠尚らとともに織田氏に与し、山崎城を築く(現在の安城市山崎町神明社、なお当時の呼称は大岡城だった)。山崎城は安城城西北方向の碧海台地の端の小高い丘に位置し、岡崎城までは見渡す限り低地が続いていた。そのため見通しが利き、敵の侵入路や兵力が把握できるので、安城城の出城として重要な役割を果たしていた。また安城城は湿地ではない西北側が弱点であり、山崎城にはこれを補完する意味もあった。なお、松平信孝の動きに信孝の仲介で広忠と婚姻同盟を結んだ水野信元も同調したとする指摘もあり、結果的にはこれが広忠と於大の方の離縁につながったとされている。また、今川義元も広忠と信孝の仲介を放棄した後も信孝陣営との関係が続いていたとみられ、信孝や信元が織田方についたからと言って、直ちに今川方と敵対した訳では無いことに注意を要する。 天文14年(1545年)9月、広忠は美濃に侵攻した織田勢の敗報を聞くと、安城城奪還のため出陣する(兵数不明)。 松平勢は安城城に信秀が到着していないと思い込んだ上に、敗戦の後で敵の士気は低く、それに加えて地理の理解では自分達に分があるとして完全に油断していた。対する織田勢(城兵600余人、援軍兵数不明)は、当時最新兵器であった火縄銃を投入し、信秀の指揮する援軍も城に入れずに城外に巧妙に配置するなど万全の態勢で臨んだ(投入された火縄銃が少数だった事と松平勢の大多数が火縄銃そのものを知らなかったため、撹乱は成功しなかった)。 両軍は安城城近辺の清(勢井)縄手で激突した。 松平勢は織田勢に背後から攻撃されて初めて援軍の到着を知り、これを叩こうとするが、この隙を突いて城兵が打って出たために挟撃を受ける。退路を断たれることを恐れた家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、広忠は聞き入れず突撃を敢行する。しかし、信秀が在陣している事が松平勢中に知れ渡ったために兵は動揺し、軍勢は二つに分断され、退路を完全に断たれた。広忠は自己の安全も絶望視されるなか討死を決意するが、重臣の本多忠豊(本多忠勝の祖父)がそれを諌め、広忠の身代わりとなって敵本陣深く突撃した事で織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は岡崎城へと退却することができた。しかし、身代わりとなった本多忠豊はこの地で討死する。この敗戦の後、広忠は松平家次(松平清定の子)や酒井忠尚の籠る上野城を攻撃するが敗北した。上野城は岡崎城を北西方面から望む要地であった。このころ松平宗家の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。
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