第二次対仏大同盟: ドイツ戦線
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「ポーランド軍団」の記事における「第二次対仏大同盟: ドイツ戦線」の解説
チザルピーナ共和国が全土をオーストリアに占領され一時滅亡したこにともない、ポーランド軍団はフランスで再編された。統領政府の第一統領の地位に上ったナポレオンにより、フランス軍内で外国人部隊が働くことが正式に認められたためである。1800年2月10日、イタリア方面で戦っていたフランス諸軍の残存兵がマルセイユで新設のイタリア軍団 (La Legion Italique) に再編された。その兵力は9000人(まもなく5000人に削減)で、イタリア方面軍の一部を構成することになった。彼らはペスキエーラやマントヴァでの戦いに参加した。 1800年もしくは1799年 (文献によって異なる)、カロル・クニャジェヴィチが6000人からなるポーランド第3軍団(ドナウ軍団、ライン軍団とも)を創設し、バイエルンでオーストリア軍と戦った。カルヴォフスキ率いる騎兵隊を主力とするこの軍団は、ライン方面軍に加わり、ベルク、ベルンハイム、オッフェンブルクなどでの戦闘に参加し、パースドルフの休戦(7月15日)以降はフィリップスブールを守備することになった。1800年12月3日には、ホーエンリンデンの戦いにも参加している。しかしデイヴィスによると、このフランスの大勝に終わった戦闘後、オーストリア軍を追撃して12月25日に終戦に至るまでの間に、ポーランド軍団は莫大な犠牲者を出している。 リュネヴィルの和約 (1801年2月9日)の後、ポーランド軍団はその規模を縮小された。その上この和約ではポーランドについて一切の言及が成されず、ポーランド人たちを失望させた。ポーランド軍団は、エトルリア王国での治安維持の任務に回された。彼らはいつまでたってもポーランド国家復興につながるような戦役に参加できなかったため、その士気は下がる一方だった。クニャジェヴィチはじめ多くの将兵が、自分たちはフランスに利用されただけだと感じ、軍団を去っていった。しかしドンブロフスキはとどまり、3月に残存していた第1・第3軍団をミラノで2つの軍団(それぞれ兵力6000人)に再編した。同年12月21日、このポーランド二個軍団はフランス政府により三個半旅団に再編された。旧第1(イタリア)軍団は第1、第2外人半旅団 (1er and 2e Demi-Brigade Étrangère)の中核を、旧第3(ドナウ)軍団は第3外人半旅団 (3e Demi-Brigade Étrangère)を形成することになった。
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