第二次尼子再興運動
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尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する。そして、瀬戸内海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。 元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。 このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、去る永禄6年(1563年)に当時の因幡国主・山名豊数と争って勝利を収めると、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると、因幡国の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬、山名豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて尽力することとなる。 因幡国内で毛利軍と交戦する一方、美作三浦氏や備前国の浦上氏、豊前国の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って体制の立て直しを図っていった。 これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(1575年7月)、但馬国の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。この若桜鬼ヶ城は、因幡国から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡国へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡国において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。
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