但馬
名字 | 読み方 |
但馬 | たじま |
但馬
姓 | 読み方 |
---|---|
但馬 | たじま |
但馬 | ただうま |
但馬 | ただま |
但馬 | たま |
但馬 | たんば |
但馬 | たんま |
但馬 | つしま |
但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 15:23 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動但馬、多遅摩、多遅麻、田道間(たじま、たぢま)
- 但馬国
- 但馬国 - 令制国のうちの1つ。現在の兵庫県北部にあたる。
- 但馬 - かつて姫路駅〜浜坂駅間などを運行していた急行列車。 → 「はまかぜ (列車)」を参照
- 但馬国造(多遅摩国造) - 大多牟坂王、息長宿禰王、日下部氏の複数の祖先の日下部君、日下部表米など。
- その他
姓名
- 日本の姓
- 但馬氏(田島氏)
- 但馬屋 - 屋号。
- 百官名の一つ。
関連項目
脚注
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但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:49 UTC 版)
天正13年(1585年)、但馬出石城(兵庫県豊岡市)にあった豊臣秀長が紀州攻めの功で紀伊国・和泉国の2か国をあたえられ、紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)に移ったのにともない、但馬国は4分されて、前野長康が出石城7万5,000石、別所重宗・別所吉治父子が但馬八木城(兵庫県養父市)1万2,000石、赤松広秀が竹田城(兵庫県朝来市)2万2,000石、明石与四郎則実が城崎城(豊岡城、豊岡市)2万2,000石をそれぞれあたえられた。なお、別所重宗の養子吉治は、当初信長に従いながらのちに離反した播磨三木城(兵庫県三木市)の城主別所長治の実子だという説がある。 文禄4年(1595年)、秀次事件に連坐して秀次の家老であった出石の前野長康、家臣として仕えた豊岡の明石則実がともに切腹した。そのため、同年、小出吉政が播磨龍野より但馬出石城5万3,200石に入り、慶長2年(1597年)には北政所の従弟にあたる杉原長房が豊岡2万石の城主として但馬に入部した。
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