但馬における南朝方の拠点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:52 UTC 版)
峻険な山に建つ進美寺は、山城の立地に適していたため、やがて伽藍は要塞化して山城となり「進美寺城」と称された。南北朝時代は、但馬における南朝方の拠点として活躍した。建武3年(1336年)南朝方の勢力が挙兵すると、今川頼貞に従い京より但馬へ帰国した伊達義綱(養父郡小佐郷地頭)の軍勢が進美寺城を攻め、激しい攻防戦が繰り広げられた。一旦、北朝方の軍勢が進美寺城を攻め落としたが、再び南朝方が取り戻し、建武5年(1338年)、今川頼貞は再度、進美寺城を攻め落とすよう命じている。進美寺は、山頂部に白山城、東尾根に掻上城、進美寺の観音堂から北へ伸びた尾根に進美寺城が作られた。 戦国時代、進美寺山の合戦で兵火に遭い伽藍が焼失したが、江戸時代、出石藩主・小出家、松平家、仙石家といずれ藩主も大檀越として歴代に名を連ね、境内の観音堂、庫裡、仁王門が順次再建された。再建されて今日に至っている。
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