但馬守護所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:36 UTC 版)
天正2年(1574年)、山名祐豊が築城したとされる。一時、六分一殿として知られた山名氏は元来此隅山城を居城としていたが、永禄12年(1569年)、織田信長配下の羽柴秀吉の攻撃を受け落城したため、有子山に城が築かれた。落城した此隅山が「子盗み」を連想させることから、別の名前であったこの城を「有り子」と名付けられたと言われる[要出典]。山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近は天守(詰の城)とされ、山麓に平常時住まいする居館および郭(但馬守護所)が設けられた。しかし、天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城した。
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