有子山城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 施設 > > 兵庫県の城 > 有子山城の意味・解説 

有子山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 16:43 UTC 版)

logo
有子山城
兵庫県
有子山全景
山頂に石垣、左山麓に出石城。手前は出石川
別名 有子城、高城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明
築城主 山名祐豊
築城年 天正2年(1574年
主な城主 山名氏前野長康小出氏
廃城年 慶長9年(1604年
遺構 石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
指定文化財 国の史跡
位置 北緯35度27分19.61秒 東経134度52分41.23秒 / 北緯35.4554472度 東経134.8781194度 / 35.4554472; 134.8781194
地図
有子山城
テンプレートを表示

有子山城(ありこやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石但馬国)にあった日本の城山城)。此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている[1][2]。また、出石城とともに続日本100名城(162番)に選定されている[3]

歴史

但馬守護所

天正2年(1574年)、山名祐豊が築城したとされる[4]。一時、六分一殿として知られた山名氏は元来此隅山城を居城としていたが、永禄12年(1569年)、織田信長配下の羽柴秀吉の攻撃を受け落城したため、から帰国した有子山に城が築かれた[1]

落城した此隅城が「子盗」(此隅)を連想させることを嫌って「有子」と名付けられたという[2]。山頂に主郭があり、主郭の西方に6段の階段状の郭、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる郭が置かれた[2]

しかし、天正8年(1580年)、祐豊の子の氏政(堯熙)が城主の時、羽柴長秀(後の秀長)の但馬侵入によって城主の氏政は因幡国に出奔した[2]

織豊時代

以後、羽柴長秀青木秀以前野長康小出吉政が城主となる[4]。ただし、近年では長秀ではなく木下昌利に与えられたと考えられている[5]。その後、吉政による出石城築城によって廃城となった[2]

歴代城主

脚注

出典

  1. ^ a b 山名氏城跡 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典”. 公益財団法人 但馬ふるさとづくり協会. 2022年3月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e 文化遺産オンライン 山名氏城跡 此隅山城跡 有子山城跡”. 文化庁. 2024年5月16日閲覧。
  3. ^ 続日本100名城”. 公益財団法人日本城郭協会. 2024年5月16日閲覧。
  4. ^ a b 今井 1999, p. 800.
  5. ^ 柴裕之「総論 羽柴(豊臣)秀長の研究」『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、16頁。ISBN 978-4-86403-547-7 

参考文献

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、有子山城に関するカテゴリがあります。





固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から有子山城を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から有子山城を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から有子山城 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「有子山城」の関連用語

有子山城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



有子山城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの有子山城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS