石垣山城
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本丸跡と天守台跡(奥)
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別名 | 石垣山一夜城 |
城郭構造 | 梯郭式山城 |
天守構造 | あり[1] |
築城主 | 豊臣秀吉 |
築城年 | 天正18年(1590年) |
主な改修者 | なし |
主な城主 | 豊臣氏 |
廃城年 | 天正18年(1590年) |
遺構 | 石垣、曲輪、堀切、井戸 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯35度14分7.5秒 東経139度7分40秒 / 北緯35.235417度 東経139.12778度座標: 北緯35度14分7.5秒 東経139度7分40秒 / 北緯35.235417度 東経139.12778度 |
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石垣山城(いしがきやまじょう)は、神奈川県小田原市早川にあった日本の城。石垣山一夜城または太閤一夜城とも呼ばれている。
概要
豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に構築した[2]。石垣山城は標高261.9mの天守台を頂点に、東西270m、南北550mにわたって丘陵上(石垣山)に位置していた[2]。
天正18年(1590年)豊臣秀吉は小田原北条氏を屈服させるため、北条領に侵攻を開始。支城であった山中城や八王子城を攻略した後、北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために大軍で城を包囲した。元々小田原北条氏の支城があったこの山を占拠した秀吉は、小田原城を見下ろすように城を築くことを発案し、同年4月から築城を開始した。
構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせたとする逸話も残り[2]、一夜城の名もこれに由来する。ただし、小田原城と石垣山一夜城の距離は非常に近く、築城中の様子は小田原城から見えていた、もしくは意識的に見せていた可能性が高い。
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣[注釈 1]の城であったとされる[注釈 2][2]。約3 - 4万人を動員し、4月から6月下旬までの80日で構築された(『小田原北条記』巻九の記述では、4月1日から築かれたと記す)。6月初頭に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が出頭した際は未だ完成途上であったが、同地にいた豊臣政権中枢に近かった茶人で商人の千利休が、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されており、6月26日に完成したとされている(6月26日に本営を早雲寺から移した[2])。およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏を申し出ている。
秀吉はこの城で茶会を開き、後陽成天皇の勅使を迎えた。天守台跡が存在し、発掘調査の結果、高層の天守があったと推測されている。時代背景を考慮すると現存する犬山城や丸岡城に近い形式であったと推測されている。
大正12年(1923年)の関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りを行った者について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国の名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者すなわち黒田官兵衛であったと推測している。
昭和34年(1959年)に北曲輪と出曲輪を除く部分が国の史跡に指定された[2](史跡指定にかかわる内容は「石垣山」参照のこと)。平成2年(1990年)には歴史公園として一般開放された[2](石垣山一夜城歴史公園)。
秀吉が政宗と謁見した際、政宗に刀を預けて丸腰のまま陣所を案内したとされる巷談、秀吉が徳川家康に対して関東移封を伝えたとされる巷説「関東の連れ小便」、どちらも舞台はこの城である。
平成元年(1989年)からの発掘調査で、「辛卯八月日」天正19年(1591年)の銘のある瓦が発見されており、小田原落城後も城の建設が続けられていたことが判明している[3]。
歴史・沿革
- 天正18年(1590年) 小田原征伐の際に陣城として築城[2]。
- 大正12年(1923年) 関東大震災で大部分の石垣が崩壊。
- 昭和34年(1959年) 「石垣山」として北曲輪と出曲輪を除く部分を国の史跡に指定[2]。
- 平成18年(2006年) 史跡追加指定[2]。
- 平成29年(2017年) 「続日本100名城」(126番)に選定。
現地情報
城跡は前述のとおり石垣山一夜城歴史公園となっている。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- 石垣山一夜城公園(小田原市)
- 石垣山城の謎〜豊臣秀吉による小田原攻めの拠点である一夜城の伝承の背景を探る
- 石垣山城「築城の謎」〜発掘調査の成果から築城背景を探る〜
- 『石垣山城』 - コトバンク
- 「史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群」 小田原市教育委員会
石垣山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 04:44 UTC 版)
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる(『小田原北条記』巻九)。記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。後世の軍記物『小田原北条記』巻九では、「4月1日に、石垣山に兵を上げて陣屋を作り、矢倉を組み立て、その四方の壁面に杉原紙を張りまわした」ことで、一夜の内に「白壁の屋形」ができあがったと説明する。
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