豊臣秀吉の一夜城とは? わかりやすく解説

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豊臣秀吉の一夜城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 04:44 UTC 版)

一夜城」の記事における「豊臣秀吉の一夜城」の解説

豊臣秀吉の手による以下の2つの城が知られているが、いずれも全く一夜作られたものではない。 物語上では『絵本太閤記出版以降墨俣城見られる短期間築城されたと見られる記録があるものに石垣山城がある。 墨俣城絵本太閤記』に初め見られるとされ、『前野家古文書』に墨俣築城の経緯記されている。しかし、織田信長にとっても豊臣秀吉にとっても重要なこの築城にについて、太田牛一の『信長公記』をはじめとする良質史料には、全く記載がない。秀吉一夜城築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。今後そうした史料見出せ限り秀吉築いたという墨俣城は、実在しなかったと断言せざるを得ない石垣山城 小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけとされる(『小田原北条記』巻九)。記録には、6月初旬伊達政宗訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付け千利休古田織部宛てた書状には「今月中出来上がる」という趣旨のことが記されているという。後世軍記物小田原北条記』巻九では、「4月1日に、石垣山に兵を上げて陣屋作り矢倉組み立てその四方の壁面杉原紙張りまわした」ことで、一夜の内に「白壁屋形」ができあがった説明する。 下の物も一夜城呼ばれることがある益富城 古処山城本拠とする支城秀吉軍が九州征伐陥落させた際に火の海となったが、一夜明けると益富城見事に修復していた。実際火の海にもなっておらず、村人一斉に篝火を焚かせた物であり、城も村人障子などを貼った物であった

※この「豊臣秀吉の一夜城」の解説は、「一夜城」の解説の一部です。
「豊臣秀吉の一夜城」を含む「一夜城」の記事については、「一夜城」の概要を参照ください。

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