豊臣秀吉に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:24 UTC 版)
天正5年(1577年)、堀直政の次男(または三男)として誕生。 天正18年(1590年)、従叔父の堀秀政が死去し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老だった父・直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は「老齢の父を助けるため3年の暇を賜りたい」と秀吉に直訴、これに感心した秀吉は「丹後守(直寄)は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」と了承し、越後魚沼郡坂戸城2万石を与えられた(坂戸藩)。 秀吉の死後、会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉・石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。
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