豊臣秀吉に派遣された通信使とは? わかりやすく解説

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豊臣秀吉に派遣された通信使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 03:57 UTC 版)

朝鮮通信使」の記事における「豊臣秀吉に派遣された通信使」の解説

1590年天正18年宣祖23年)の通信使 信長明・朝鮮との通商貿易図り、年使を派遣した朝鮮はこれに応じず、次いで政権掌握した秀吉は、1587年天正15年宣祖20年)の九州平定後に、対馬宗義智命じて交渉にあたり朝鮮国王昖の来日求めた宗義智は、交渉の途ではじめから服属求めず秀吉による天下統一祝賀使節朝鮮求めた。こうして1590年天正18年宣祖23年)に通信使が派遣されて、12月3日旧暦11月7日)に秀吉謁見した。名目としては秀吉日本統一祝賀だが、朝鮮侵攻の噂の真偽確かめることも目的だった。秀吉通信使を服属使節思い朝鮮国王に対して明の征服先導するように求める書を渡す。通信使側では書きかえを求めたが、受け入れられなかった。当時正使黄允吉副使金誠一対立関係にあり、異な報告したため政争原因となった西人党に属す黄允吉侵攻意思ありと報告し一方で東人党の金誠一侵攻意思なしと報告をした。当時政権では東人党が力を持っており、副使側の意見採用された。文禄の役の際に一気平壌まで侵攻されたのは、この金誠一報告従い、なんら用意をしていなかったためともされる。 1596年慶長元年宣祖29年)の通信使 文禄の役において、日本軍朝鮮軍明軍戦い、やがて和議機運が高まる。1596年慶長元年宣祖29年)の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉締めくくりとして行われた明の冊封使同行したものであった冊封使楊方亨正使沈惟敬副使任命された。朝鮮では当初通信使派遣反対したが、派遣しなければ再度侵攻可能性があるという議論になり、朝鮮正使黄慎(行護軍兼敦寧都正)、副使弘長大邱府使)の随行決まった冊封使秀吉接見できたが、朝鮮通信使接見許されずに堺で待機となる。冊封使日本軍朝鮮撤退求めたが、秀吉激怒して交渉失敗終わった通信使の黄慎は、冊封使楊方亨早急な帰国すすめられるが、国書秀吉に渡すことを希望して待機続ける。堺には、和平成功帰国期待する朝鮮人集まっていた。しかし和平破れ日本再出兵の動き知った黄慎帰国をして、慶長の役となった

※この「豊臣秀吉に派遣された通信使」の解説は、「朝鮮通信使」の解説の一部です。
「豊臣秀吉に派遣された通信使」を含む「朝鮮通信使」の記事については、「朝鮮通信使」の概要を参照ください。

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