豊臣秀吉に派遣された通信使
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「朝鮮通信使」の記事における「豊臣秀吉に派遣された通信使」の解説
1590年(天正18年・宣祖23年)の通信使 信長は明・朝鮮との通商貿易を図り、年使を派遣したが朝鮮はこれに応じず、次いで政権を掌握した秀吉は、1587年(天正15年・宣祖20年)の九州平定後に、対馬の宗義智に命じて交渉にあたり、朝鮮国王李昖の来日を求めた。宗義智は、交渉の途ではじめから服属は求めず、秀吉による天下統一の祝賀使節を朝鮮に求めた。こうして1590年(天正18年・宣祖23年)に通信使が派遣されて、12月3日(旧暦11月7日)に秀吉に謁見した。名目としては秀吉の日本統一の祝賀だが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめることも目的だった。秀吉は通信使を服属使節と思い、朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。通信使側では書きかえを求めたが、受け入れられなかった。当時の正使黄允吉と副使金誠一は対立関係にあり、異なる報告をしたために政争の原因となった。西人党に属する黄允吉は侵攻の意思ありと報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻の意思なしと報告をした。当時の政権では東人党が力を持っており、副使側の意見が採用された。文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのは、この金誠一の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる。 1596年(慶長元年・宣祖29年)の通信使 文禄の役において、日本軍は朝鮮軍や明軍と戦い、やがて和議の機運が高まる。1596年(慶長元年・宣祖29年)の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行したものであった。冊封使は楊方亨が正使、沈惟敬が副使に任命された。朝鮮では当初は通信使派遣に反対したが、派遣しなければ再度侵攻の可能性があるという議論になり、朝鮮の正使は黄慎(行護軍兼敦寧都正)、副使は朴弘長(大邱府使)の随行が決まった。 冊封使は秀吉に接見できたが、朝鮮通信使は接見を許されずに堺で待機となる。冊封使は日本軍の朝鮮撤退を求めたが、秀吉は激怒して交渉は失敗に終わった。通信使の黄慎は、冊封使の楊方亨に早急な帰国をすすめられるが、国書を秀吉に渡すことを希望して待機を続ける。堺には、和平の成功と帰国を期待する朝鮮人も集まっていた。しかし和平は破れ、日本の再出兵の動きを知った黄慎は帰国をして、慶長の役となった。
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