豊臣秀吉の政策での消滅
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「落ち武者狩り」の記事における「豊臣秀吉の政策での消滅」の解説
豊臣秀吉は天下統一を進め、「関白の平和」を目指す政策として天正13年(1585年)から翌年にかけて惣無事令を出し、天正16年(1588年)刀狩令や、天下統一後の天正18年(1590年)「浪人停止令」で武家への奉公人以外の農村の雑兵浪人を追放した。続いて翌年に身分統制法も定め、慶長2年(1597年)盗人停止令の第5条で私的な成敗を禁止し、奉行への届け出を義務付けた。この一連の政策で身分を固定して自力救済の成敗権が否定され、落ち武者襲撃慣行は村から消えていく。ただし自力救済は、村の防衛という面では慶長5年(1600年)に醍醐で関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦い用の竹木を略奪する雑兵約150名の濫妨を、村々が早鐘で武器を取って蜂起し、追い払う形で行われていた。 同年9月関ヶ原の戦いの後に勝者の徳川側から残党狩りが懸賞金付きで布告され、石田三成、宇喜多秀家、島津義弘を捕らえたものは永年貢免除、捕らえられない場合には村人たちの討ち果しを公認し、金子100枚が賞金にかけられた。石田三成は近江の古橋村(現・長浜市木之本町古橋)で隠れ住んでいる場所が村にわかり、徳川側の田中吉政の捜索隊に捕縛されている。あるいは、庄屋の次左衛門の縁の下に匿われていたところを通報された、という説もある。いずれにしても、自力襲撃はされていない。その、落ち武者狩りの実例は宇喜多秀家などに見られるが、この時は伊吹山に逃げ込んだが、逆に落ち武者狩りの指導者の土豪に匿われて死んだと報告された。9月17日島津義弘は、50数人での敗走で伊賀上野藩に入り関が原に東軍で出陣して留守番衆だけの筒井家側に通知したうえ通行したが、城下を過ぎた険しい坂の細道で待ち構えていた村人勢500人に弓銃鑓などで襲われたが撃退して、指導者たちは藩の関係者らしく取った5首と捕虜2名を城下に戻り城口に置いている。15日食料調達の斥候6人は美濃国駒野付近で訪れた村で周囲の村も含めた多人数に襲われ5人が打ち殺された。中世以来の法外人視や略奪慣行は変化して落ち武者襲撃慣行ではなくなり、地域自衛の側面は残しつつ支配者の体制への協力という形で実施された。その後、江戸幕藩体制の安定で武士支配層間の戦争が無くなり、落ち武者狩りは過去のものとなった。 一時的な落ち武者狩りの復活は、慶応元年(1868年)正月7日鳥羽・伏見の戦い後に、幕藩体制が弛緩した中で、幕府側残党の歩兵を、周辺の村人たちが自力襲撃して、捕縛や撃ち殺して首を取ったり追い払ったりしている。過去との違いは長州藩出張所に事後届け出して、捕獲した武器や装備品は、長州側に恭順していた枚方幕府陣屋に村から差し出した。中には「紺足袋」「羽織紐」など軽易なものを願い出て拝領している。ただし、幕末の村の形態やどのような層が、どういう背景で実行したのか、明らかではない。
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