豊臣秀吉への対処
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 07:41 UTC 版)
伊達政宗の家督相続(1586年)から小田原参陣(1590年)までの間、奥州の南半分に割拠する諸氏はみな伊達政宗の侵略にさらされ、服属して家臣になるか滅ぼされるかの瀬戸際にあった。服属したものに石川氏、大崎氏、葛西氏があり、抗戦して滅ぼされたものに蘆名氏があり、圧迫されて存亡の危機にさらされていたものに相馬氏があった。豊臣政権下で大名として生き残ったのは、政宗に対抗して秀吉を頼った相馬で、政宗に服属した諸氏は取り潰された。大崎氏に対して、中央の情勢を見る目があれば秀吉の命に応じて上洛できたはずだとして、義隆の無能、あるいは当時の大崎家の混乱を指摘する学者が多い。しかしこの頃の大崎氏・葛西氏は、独立した大名とも言えるし、伊達氏の家臣ともみなせるという微妙な立場にあった。伊達政宗に服属した者が、政宗が対抗する勢力に勝手に服従するわけにいかないのは当然である。政宗が秀吉に服属した段階でも、直接に秀吉に臣従することは、政宗を無視することとなりかねない。これを見越した政宗は、葛西晴信に対し、奥州と出羽の仕置は自分が秀吉から委ねられたと述べ、行動を牽制する書状を送っていた。大崎義隆にも同じような圧力が加えられ、政宗の意向に逆らって秀吉に参陣すべきではないという判断につながった可能性がある。
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