豊臣秀吉隠居屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)
伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が1591年(天正19年)に関白の位と京都における政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は文禄元年(1592年)8月11日に秀吉が平安時代より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月17日に場所を決定し、20日には着工が決められた。次いで8月24日に区画割りが開始され、9月3日には建設が始まる など、工事は急いで進められた。また、同年12月に秀吉が文禄の役で名護屋城在陣中に利休好みの趣向で造らせるよう指示を出している。この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見地区に遺る。 「伏見城の築城は、はじめから秀吉が豪壮華麗な城として築こうとしていたと考えるのは早計である。当初の計画では、あくまでも隠居として、屋敷構にするつもりだったと思われている」とあるように、当初は城というより邸宅としての性格が強かったと考えられている。隠居屋敷は1593年(文禄2年)9月には伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われる。
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