豊臣秀吉以降
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足利将軍は鎌倉時代から御家人の中でも最初から家格が高かったが、戦国大名の家来で、後に天下統一を果たした秀吉は違う。元々は守護大名の被官・織田家のそのまた被官に過ぎない。それゆえ接見の場で格の違いを創造し、上下関係をはっきりと意識させる必要があった。そこで大規模な対面儀礼が広間・大広間と呼ばれる建物で行われるようになる。先の『匠明』にもこう記されている。 天正ノ此、関白秀吉公聚楽ノ城ヲ立給フ時、主殿ヲ大キニ広ク作リタルヲ、広間ト俗ノ云ナラワシタルヲ、爾今広間ト云リ。 当時それは「広間」と呼ばれていたが今では「書院」と呼ぶ。それまではセットにはなってはいなかった床、棚、付書院、帳代構を一カ所に集め、金碧濃彩な障壁画、それまでは仏堂にしか使はれなかった折り上げ天井など、あらゆる面で豪華絢爛に装飾し、毛利などの戦国大名に財力の違い、格の違いを見せつけ、武力だけでなく心理的にも屈服させ、対面という服従儀礼を通して主従関係を築き上げるための装置である。 天守閣が織田信長の安土城に発してまたたく間に全国の大名の力の象徴となっていったように、人目を引く聚楽第大広間(画像a71)の様式は新しい「格」として大名の居館広間のモデルとなり、これ以降全国に広まる。武家社会だけでなく、寺院や公家社会にも広まる。そして徐々に下位の武家屋敷にまで広がっていった。その一方で、かつては会所で行われていた少人数でのコニュニケーション、寄合は茶室へと移り、そこから数寄屋造が始まる。なお、後の書院造では一般的となった雨戸も聚楽第の頃からである。太田博太郎は『匠明』にある書院造の配置図を分析しこう書く。 まず目につくのは、接客用の空間が全体の約三分の一を占め、東西のいい地域を占領していることである。寝殿造ではこういった接客専用の空間というものは存在しない。行事のときは寝殿の母屋や南庇が使に客を迎えるが、そこは主人の日常の居間であった。 接客用の空間として独立し『匠明』掲載の主殿の図に極めて類似した建物が園城寺の光浄院客殿や勧学院客殿などに残る。
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