豊臣秀吉以降とは? わかりやすく解説

豊臣秀吉以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)

中世の寝殿造」の記事における「豊臣秀吉以降」の解説

足利将軍鎌倉時代から御家人中でも最初から家格高かったが、戦国大名家来で、後に天下統一果たした秀吉は違う。元々は守護大名被官織田家のそのまた被官に過ぎないそれゆえ接見の場で格の違い創造し上下関係をはっきりと意識させる必要があった。そこで大規模な対面儀礼広間大広間呼ばれる建物行われるうになる先の匠明』にもこう記されている。 天正ノ此、関白秀吉聚楽ノ城ヲ立給フ時、主殿ヲ大キニ広ク作リタルヲ、広間ト俗ノ云ナラワシタルヲ、爾今広間ト云リ。 当時それは「広間」と呼ばれていたが今では「書院」と呼ぶ。それまでセットはなってはいなかった床、付書院帳代構を一カ所に集め金碧濃彩障壁画それまで仏堂にしか使はれなかった折り上げ天井など、あらゆる面で豪華絢爛装飾し毛利などの戦国大名財力違い、格の違い見せつけ、武力だけでなく心理的に屈服させ、対面という服従儀礼通して主従関係築き上げるための装置である。 天守閣織田信長安土城発してまたたく間全国大名の力の象徴となっていったように人目を引く聚楽第大広間(画像a71)の様式新しい「格」として大名居館広間モデルとなり、これ以降全国に広まる。武家社会だけでなく、寺院公家社会にも広まる。そして徐々に下位武家屋敷にまで広がっていった。その一方でかつては会所行われていた少人数でのコニュニケーション、寄合茶室へと移り、そこから数寄屋造が始まる。なお、後の書院造では一般的となった雨戸聚楽第の頃からである。太田博太郎は『匠明』にある書院造配置図分析しこう書く。 まず目につくのは、接客用の空間全体の約三分の一占め東西のいい地域占領していることである。寝殿造ではこういった接客専用空間というものは存在しない行事のときは寝殿母屋や南庇が使に客を迎えるが、そこは主人日常居間であった接客用の空間として独立し匠明掲載主殿の図に極めて類似した建物園城寺光浄院客殿勧学院客殿などに残る。

※この「豊臣秀吉以降」の解説は、「中世の寝殿造」の解説の一部です。
「豊臣秀吉以降」を含む「中世の寝殿造」の記事については、「中世の寝殿造」の概要を参照ください。

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