豊臣秀吉の治水事業とは? わかりやすく解説

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豊臣秀吉の治水事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 03:59 UTC 版)

宇治川太閤堤跡」の記事における「豊臣秀吉の治水事業」の解説

豊臣秀吉は、文禄3年1594年)の伏見城築城機に、同城の南方流れ宇治川流路変更をともなう大規模な治水工事諸大名命じて実施した。この治水工事造られ堤防群を総称して太閤堤」という。「太閤堤」という語は、幕末1863年の『宇治川両岸一覧』という史料にすでに用例がある。 宇治川琵琶湖から流出する唯一の河川で、上流滋賀県側では瀬田川呼ばれる近世以前宇治川は、宇治橋より下流はいくつもの流れ分かれ主要な流れ西へ向かって巨椋池おぐらいけ)に流入していた。巨椋池とは、かつて京都府南部現在の宇治市京都市伏見区久御山町境界付近に存在した大池で、20世紀前半干拓され農地変わった秀吉は、築堤によって宇治川流路一本化し、川が宇治橋から北流して伏見向かって流れるようにするとともに宇治川巨椋池分離図った秀吉はこうした治水工事によって、伏見への舟運交通整備したまた、の上部は道路としても使われたので、築堤陸上交通整備にもつながった秀吉によって整備された堤の主要なものとしては、槙島堤、小倉堤、淀堤などがある。槙島堤は宇治から北方向島(むかいじま)に至るもので、現宇治川左岸にあたる。小倉堤は宇治西方小倉から巨椋池の中を通って向島に至るもので、現在は干拓され陸地になっており、大和街道がその名残りである。淀堤は伏見から納所(のうそ)へ至るもので、宇治川下流右岸にあたる。2009年に国の史跡指定された「宇治川太閤堤跡」は、宇治川右岸現在の京阪宇治駅付近から北へ400メートルほどの長さわたって発掘された、秀吉時代堤防の跡である。

※この「豊臣秀吉の治水事業」の解説は、「宇治川太閤堤跡」の解説の一部です。
「豊臣秀吉の治水事業」を含む「宇治川太閤堤跡」の記事については、「宇治川太閤堤跡」の概要を参照ください。

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