豊臣秀吉の治水事業
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「宇治川太閤堤跡」の記事における「豊臣秀吉の治水事業」の解説
豊臣秀吉は、文禄3年(1594年)の伏見城築城を機に、同城の南方を流れる宇治川の流路変更をともなう大規模な治水工事を諸大名に命じて実施した。この治水工事で造られた堤防群を総称して「太閤堤」という。「太閤堤」という語は、幕末の1863年の『宇治川両岸一覧』という史料にすでに用例がある。 宇治川は琵琶湖から流出する唯一の河川で、上流の滋賀県側では瀬田川と呼ばれる。近世以前の宇治川は、宇治橋より下流ではいくつもの流れに分かれ、主要な流れは西へ向かって巨椋池(おぐらいけ)に流入していた。巨椋池とは、かつて京都府南部、現在の宇治市・京都市伏見区・久御山町の境界付近に存在した大池で、20世紀前半に干拓されて農地に変わった。秀吉は、築堤によって宇治川の流路を一本化し、川が宇治橋から北流して伏見へ向かって流れるようにするとともに、宇治川と巨椋池の分離を図った。秀吉はこうした治水工事によって、伏見への舟運交通を整備した。また、堤の上部は道路としても使われたので、築堤は陸上交通の整備にもつながった。 秀吉によって整備された堤の主要なものとしては、槙島堤、小倉堤、淀堤などがある。槙島堤は宇治から北方の向島(むかいじま)に至るもので、現宇治川の左岸にあたる。小倉堤は宇治の西方の小倉から巨椋池の中を通って向島に至るもので、現在は干拓されて陸地になっており、大和街道がその名残りである。淀堤は伏見から納所(のうそ)へ至るもので、宇治川下流の右岸にあたる。2009年に国の史跡に指定された「宇治川太閤堤跡」は、宇治川の右岸、現在の京阪宇治駅付近から北へ400メートルほどの長さにわたって発掘された、秀吉時代の堤防の跡である。
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