豊臣秀吉時代
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天正10年(1582年)の清洲会議の後、織田信孝が岐阜城を相続し、美濃は支配下に置かれるはずだったが、一鉄は信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは、信孝から城下の焼き討ちを受けている。柴田勝家方の不破氏の西保城を攻めた。 新たに岐阜城主となった池田恒興とは、恒興が大垣城主の頃からも境界線についての抗争があったが、仲介に当たった秀吉から、4万貫の領地が安堵されている。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、武功を挙げた(前哨戦である小牧の戦いで岩崎山の砦を守備したのが最後に戦場に出た記録で、以後、前線には出ていない)。 天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。 天正15年(1587年)、「島津攻め」から凱旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大坂城山里丸の茶室に招かれる。 天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去した。享年74。
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豊臣秀吉時代
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元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。 天正13年(1585年)3月、紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸後、阿波戦線に加わった。 天正14年(1586年)、九州征伐にも豊臣秀長のもと、毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎とともに日向戦線に参加した。 天正15年(1587年)、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられた。 天正18年(1590年)、小田原征伐にも参加して豊臣政権を支えた。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、大将として出陣し、李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。 文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。 文禄3年(1594年)5月20日、朝鮮での功により、参議から従三位・権中納言に昇叙した(7月20日辞任)。 慶長2年(1597年)、慶長の役では毛利秀元と共に監軍として再渡海し、左軍の指揮を執って南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。 慶長3年(1598年)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。
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