列聖とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 政治 > 国家 > 君主 > 列聖の意味・解説 

れっ‐せい【列聖】

読み方:れっせい

歴代天子

カトリック教会で、死後福者に列せられた信徒が、さらに教皇宣言により聖人として公式に認められること。


れっせい 【列聖】

①(canonizationカトリックで、聖人の位に列すること。②代々天皇をいう。歴代聖主の意。

列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 10:15 UTC 版)

列聖(れっせい、: Canonizatio)とは、キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。死後に行われる。




「列聖」の続きの解説一覧

列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 08:05 UTC 版)

リジューのテレーズ」の記事における「列聖」の解説

死後自叙伝出版されたことでテレーズの名がフランスのみならずヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気高まった1914年6月10日教皇ピウス10世テレーズ列聖調査進め宣言署名したベネディクトゥス15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという条件を、テレーズ限って特別に緩和することを決定、これは異例のことであった1925年テレーズ死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖される。4人の姉たちはみな長命であったため、実の妹がカトリック福者聖人挙げられてゆくのを目の当たりにすることになった。またうち2、3人はテレーズの列聖を積極的に支援する活動をした。 リジューのテレーズ病人パイロット花屋宣教師ロシアの他に、子どもや弱い者の守護聖人になっている。彼女はジャンヌ・ダルク次いでフランスの第2の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから、1927年には海外宣教者の守護聖人となった1997年10月19日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって深い霊性思想たたえられて「教会博士」に加えられた。教会博士称号与えられている聖人女性としてアビラのテレサシエナのカタリナ続いて3人目である。(4人目ヒルデガルト・フォン・ビンゲンテレーズの名が広く知られることになったのは、彼女の自伝ともいうべき『ある霊魂物語』(日本語版の題名『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』)が多く読者得たためであった。これは修道会では入会者に自分半生振り返る記録提出させる習慣があったため、それを編集したのである日本ではパリ外国宣教会シルベン・ブスケ神父により初め翻訳され1911年9月出版された。普及版は姉のポリーヌ徹底的な編集おこなったものが元になっているが、近年ではよりオリジナルに近いものが発表されている。ほかにもテレーズ書簡集なども出版されている。

※この「列聖」の解説は、「リジューのテレーズ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「リジューのテレーズ」の記事については、「リジューのテレーズ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 16:17 UTC 版)

母マリヤ」の記事における「列聖」の解説

母マリヤコンスタンディヌーポリ総主教庁聖シノドにより2004年1月16日に列聖された。2004年5月1日5月2日行われたパリアレクサンドル・ネフスキー大聖堂での列聖式では、母マリヤとともにドミートリー神父ユーリ、そしてイリヤ・フォンダミンスキーが列聖された。彼等記憶日7月20日である。

※この「列聖」の解説は、「母マリヤ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「母マリヤ」の記事については、「母マリヤ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:56 UTC 版)

キンガ (ポーランド王妃)」の記事における「列聖」の解説

ローマ教皇アレクサンデル8世は、1690年キンガ列福した。1695年キンガポーランド及びリトアニア守護聖人とされた。1999年6月16日教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。 スタルィ・ソンチ(英語版)の修道院にあるキンガの像 トジ・コロヌィ(英語版近郊キンガ像 ノヴィ・コルチニ(英語版)にある19世紀キンガ聖キンガ

※この「列聖」の解説は、「キンガ (ポーランド王妃)」の解説の一部です。
「列聖」を含む「キンガ (ポーランド王妃)」の記事については、「キンガ (ポーランド王妃)」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:28 UTC 版)

ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ」の記事における「列聖」の解説

同時期に長崎殉教したドミニコ会関係者とともに、「聖トマス西と15殉教者」として1981年2月18日福者に列せられ、6年後の1987年10月18日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。

※この「列聖」の解説は、「ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ」の記事については、「ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 00:07 UTC 版)

エリザベス・アン・シートン」の記事における「列聖」の解説

エリザベス・アン・シートン1963年3月17日教皇ヨハネ23世によって 列福された。この時教皇演説は「とても小さな家中でも、そこは慈悲深い行いをするのには十分なスペースである。エリザベス・アン・シートンアメリカ蒔いた種は神の恵みにより大きなきに成長した。」というものだった1975年9月14日には教皇パウロ6世によって 列聖され、それを祝う式典で の教皇言葉は「エリザベス・アン・シートンは、聖人であり、聖エリザベス・アン・シートンアメリカ人である。私たち全て特別な喜び持ち、そして、聖人暦の中の最初の花として彼女を輩出した国土国家称えこのように言う。エリザベスシートンは、完全にアメリカ人である!あなたの素晴らしい娘を喜び祝いなさい。彼女を誇り思いなさい。そして彼女が実らせた遺産どのように保つか、その方法知っておくようにしなさい。」 聖エリザベス・アン・シートン祝日1月4日である。 エリザベス・シートンは航海による旅人保護聖人である。

※この「列聖」の解説は、「エリザベス・アン・シートン」の解説の一部です。
「列聖」を含む「エリザベス・アン・シートン」の記事については、「エリザベス・アン・シートン」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:42 UTC 版)

ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の記事における「列聖」の解説

ヤドヴィガその死後間もなくポーランド多く人々聖女として崇敬を受けるようになったが、列福1980年代入ってからで、1997年ポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。 ヤドヴィガに関する多く伝説奇跡数えられ正当化されたが、特に有名なのが「ヤドヴィガ十字架」と「ヤドヴィガの足」の2つである。ヤドヴィガヴァヴェル大聖堂北側の翼にかかった大きな黒い十字架像好み、しばしば祈り捧げていたが、祈る間、十字架に磔になっているイエス・キリスト女王話しかけていたといわれるのが前者であり、十字架聖遺物とされた。 後者伝説は、ある時貧し石工施し求められたとき、女王の足から沢山の宝石現れたというもので、ヤドヴィガ立ち去った後、石工自分仕事場の床のまだ柔らかい漆喰部分女王足跡残っているのを見つけたとされる。この足跡のついた漆喰クラクフのある教会保存しており、今も見ることが出来る。1979年6月8日、ヨハネス・パウロ2世ヤドヴィガ訪れ1986年8月8日典礼秘跡省によって福者とされて、1997年6月8日に公式に聖女になったヤドヴィガ遺骸3回掘り起こされている。最初17世紀、彼女の埋葬場所の隣に司教納めるためであった2回目1877年で、ヤドヴィガの完全に白骨化した遺骸マント帽子を身に着けた姿で発見された。画家ヤン・マテイコは、彼女の頭蓋骨模写し、これを元に肖像画作成した3回目1949年、白大理石彫像付き石棺遺骸を移すために掘り起こされた。この石棺著名な美術品蒐集家カロル・ランツコロンスキ伯爵が、1902年にアントニ・マデイスキという彫刻家注文して作らせていたもので、石棺の上彫像足元には「忠誠」を象徴する彫刻されている。 この石棺は、ヴァヴェル大聖堂内の多く彫像付き石棺とは反対西側向いて横たわっている。また、以前遺骸収められていた石棺の隣には、木で出来た上品な宝珠王笏飾られている。

※この「列聖」の解説は、「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の記事については、「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 19:44 UTC 版)

プラハのアダルベルト」の記事における「列聖」の解説

アダルベルト殉教してわずか数年後には、列聖されていた。999年シルウェステル2世により列聖されたとされる彼の遺骸プルーセン人から買い取ることを、当時ボヘミア公ボレスラフ2世アダルベルトの父スラヴニク公と激しく対立していたプシェミスル家出身の公であったため、拒んでいた。そこで、アダルベルト生前最大支援者であったポーランドボレスワフ1世遺骸と同じ重さの金という途方もない高額プルーセン人支払うことでキリスト教社会ポーランド取り戻した。そのためにアダルベルト遺骸すなわち聖遺物ポーランド最初大司教座であるグニェズノグニェズノ大聖堂収められた。この行為ボレスワフ公の地位ヨーロッパで上がるのに一役買うことになったポーランド王国ボレスワフ1世王(ボレスワフ公は1025年ポーランド王となっていた)の死後まもない時期1039年当時ボヘミア公ブジェチスラフ1世en:Bretislaus I of Bohemia)は聖アダルベルト聖遺物グニェズノから取り戻しプラハ持ってこさせたとされる。ところが、実際のところはポーランド人チェコ人態度警戒して遺体隠しその一部だけをチェコ人渡したのだとも言われている(ポーランド書物 Roczniki Polskie による)。実際のところ1000年ボレスワフ王が神聖ローマ皇帝オットー3世アダルベルトの腕の骨一本渡しており、その骨は1928年になってグニェズノ保管されている聖遺物中に加えられた。 現在、聖アダルベルトの墓は、ポーランド・ポズナン近郊グニェズノ市にあるグニェズノ大聖堂とチェコ・プラハの聖ヴォイテク教会の2箇所にある。これに関しては、アダルベルトボヘミアから追い出しておきながら、後になってその聖遺物返せと言い出したチェコ人態度呆れ返っていたポーランドカジミェシュ1世が、まったく別人遺体聖遺物だと称してチェコ人渡した伝えられており、これは 「ポーランド年代記」 の記述整合しうる。実際にアダルベルトのものとされる頭蓋骨ポーランドグニェズノ大聖堂チェコプラハ教会の2箇所にある。 典拠管理 WorldCat Identities BNE: XX1312781 BNF: cb12356938m (データ) GND: 118646850 ISNI: 0000 0001 1029 3669 LCCN: n86042880 NKC: jn20000720322 SELIBR: 174790 SUDOC: 032563663 VIAF: 262489815

※この「列聖」の解説は、「プラハのアダルベルト」の解説の一部です。
「列聖」を含む「プラハのアダルベルト」の記事については、「プラハのアダルベルト」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 09:52 UTC 版)

ヴァンサン・ド・ポール」の記事における「列聖」の解説

1705年ラザリスト会総長は、列聖調査開始するよう要請した1729年8月13日教皇ベネディクトゥス13世によりヴァンサン・ド・ポール列福された。約8年後の1737年6月16日に、教皇クレメンス12世により列聖された。1885年教皇レオ13世愛徳修道女会の守護聖人とした。彼はまた、愛徳兄弟会の守護聖人でもある。 彼の死から53年後の1712年遺骸掘り出された。証言によれば彼の眼と鼻のみがある程度腐敗見せていたという。1737年の列聖の最中に再び掘り出されたときは、地下浸水により、腐敗しているのが見つかった彼の遺骨蝋人形中に入れられ、パリにあるラザリスト会本部チャペルにあるガラス製の聖遺物容器中に展示されている。彼の心臓未だに腐敗してはおらず、こちらはパリのヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会チャペル聖遺物容器中に展示されている。 1737年彼の祝日ローマ典礼暦7月19日含まれていたが、それは彼の死去日がすでに他の聖人である聖コスマスと聖ダミアヌスフランス語版)の祝日当てられていたからであった。元は二級祝日として祝われていたが、1960年には3級祝日同等に格下げとなった教皇パウロ6世聖人西側ではより知られているので、彼の祝日9月27日移し代わりにコスマスと聖ダミアヌス9月26日移動したまた、彼は英国国教会米国聖公会崇敬されており、その祝日9月27日である。

※この「列聖」の解説は、「ヴァンサン・ド・ポール」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ヴァンサン・ド・ポール」の記事については、「ヴァンサン・ド・ポール」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:49 UTC 版)

リマのローザ」の記事における「列聖」の解説

1667年ローマ教皇クレメンス9世により列福され、1671年教皇クレメンス10世により最初アメリカ大陸聖人として列聖された。友人マルティン・デ・ポーレス、アロンソ・アバドらが、リマサント・ドミンゴ修道院内に彼女の礼拝堂建てたカトリック教会は、彼女の死によって多く奇跡起きた認定している。新世界におけるサンタ・ローザという地名は、この聖人追憶するものである教皇ベネディクト16世はこの聖人特別な献身捧げたわたしたち土曜日8月23日)にリマの聖ローザ(1586-1617年)に祈りますリマの聖ローザラテンアメリカ大陸最初に列聖された聖人であり、ラテンアメリカ大陸第一守護聖人です。聖ローザはしばし繰り返してこういいました。「人々恵みのうちに生きるとはどういうことかを知ったなら、どんな苦しみ恐れることもないでしょう。そして、どんな苦難にも進んで耐えるでしょう恵み忍耐生み出す実だからです」。聖ローザ挫折苦しみ満ちた短い生涯の後、1617年31歳亡くなりました。それは聖バルトロマイ使徒祭日8月24日)でした。聖ローザ聖バルトロマイ深く崇敬しいました聖バルトロマイ特別に苦しみ満ちた殉教遂げたからです。 — 教皇ベネディクト16世146回目一般謁見演説八月聖人たち」、カトリック中央協議会 ローザ帰天日である8月24日十二使徒一人である聖バルトロマイ祝日でもあるため、典礼暦におけるリマのローザ祝日は、ペルーを除く他のラテン・アメリカ諸国では8月23日としているが、ペルー国民の祝日では伝統的な8月30日のままであるリマのローザ聖地であるサント・ドミンゴ教会修道院のある地区は、1988年に「リマ歴史地区英語版)」の名称で世界遺産文化遺産)に登録されている。

※この「列聖」の解説は、「リマのローザ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「リマのローザ」の記事については、「リマのローザ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 15:36 UTC 版)

エドマンド・キャンピオン」の記事における「列聖」の解説

エドマンド・キャンピオン1886年12月9日教皇レオ13世によって列福された。福者となったキャンピオン84年後の1970年教皇パウルス6世により、イングランド及びウェールズ40殉教者一人として列聖された。40殉教者祝日10月25日であるが、キャンピオン個人祝日殉教した12月1日定められた。 キャンピオン処刑時に実際に使われた縄は、現在ランカシャーのストーニーハースト・カレッジ(en:Stonyhurst College)に置かれガラス製の筒型容器中に保管されている。この縄は毎年キャンピオン祭日セント・ピーター教会行われるミサ際し祭壇展示される

※この「列聖」の解説は、「エドマンド・キャンピオン」の解説の一部です。
「列聖」を含む「エドマンド・キャンピオン」の記事については、「エドマンド・キャンピオン」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 07:50 UTC 版)

フォリーニョのアンジェラ」の記事における「列聖」の解説

2013年10月9日ローマ教皇フランシスコ (ローマ教皇)が列聖した。

※この「列聖」の解説は、「フォリーニョのアンジェラ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「フォリーニョのアンジェラ」の記事については、「フォリーニョのアンジェラ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:43 UTC 版)

トマス・モア」の記事における「列聖」の解説

1935年カトリック教会殉教者としてモアと同じ1535年6月22日処刑されジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており、記念日6月22日である。政治家弁護士守護聖人となっている。

※この「列聖」の解説は、「トマス・モア」の解説の一部です。
「列聖」を含む「トマス・モア」の記事については、「トマス・モア」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 07:22 UTC 版)

ジュゼッピーナ・バキタ」の記事における「列聖」の解説

バキタは1947年2月8日帰天3日間、彼女の遺体安置され、何千もの人々が彼女に敬意払いにやってきた。彼女を列聖してほしいという声がすぐに起こり、彼女の死からわずか12年後1959年審査開始された。1978年12月1日ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、バキタを列聖の最初の段階である尊者とした。1992年5月17日列福され、2000年10月1日、列聖された。

※この「列聖」の解説は、「ジュゼッピーナ・バキタ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジュゼッピーナ・バキタ」の記事については、「ジュゼッピーナ・バキタ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 08:01 UTC 版)

ラファエル・アルナイス・バロン」の記事における「列聖」の解説

マリア・ラファエルの短い生涯における、短期間高められた、極めて透徹し霊性世間知らしめたのは、その母であるメルセデス・バロンの功績によるところが大きい。彼女は、マリア・ラファエルの書簡集ノート遺稿集としてまとめ発行した。彼女は、マリア・ラファエルと娘メルセデス、夫ラファエル先立たれ1957年死亡した。 マリア・ラファエルが敬愛し伯父レオポルド・バロン・マケダ公爵は、彼の小伝を、『トラピスト秘密』として出版した彼の伝記遺稿集は、各国語翻訳され静かな感動呼んだ。便利で快適な都市生活謳歌する典型的な現代青年が、修道院暖房器具もない木の固いベッド生活し一日中沈黙戒律を守る生活を選び取るまでの軌跡、そして、不治の病の中で、ただひたすら神への賛美生きる、その研ぎ澄まされ感覚霊性は、そのこと自体奇跡的ですらある。 その後1960年代に、列聖運動がおこる。マリア・ラファエルのとりつぎとされるいくつかの奇跡報告され、ついに、1992年9月27日ヨハネ・パウロ2世によって列福され、「今日キリスト者青年一つモデル像」と紹介された。その列福式の場には、実弟フェルナンドシャルトルーズ会修道士)の姿もあった。 2009年10月11日に、ベネディクト16世によって列聖された。列聖後の「聖ラファエル・アルナイス」は、糖尿病患者世界青年の日ワールドユースデー守護聖人とされている。 聖イシドロ修道院は、2011年彼らの兄弟である聖人生誕100周年祝った

※この「列聖」の解説は、「ラファエル・アルナイス・バロン」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ラファエル・アルナイス・バロン」の記事については、「ラファエル・アルナイス・バロン」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 12:55 UTC 版)

リヒャルディス」の記事における「列聖」の解説

リヒャルディスは後に列聖され、その遺骸1049年11月教皇レオ9世により、修道院教会新たに建設されたより立派な墓に改葬された。現在の墓は1350年以降のものであるリヒャルディスアンドーおよび火からの保護に関する守護聖人である。リヒャルディス宗教画は、皇后修道女、および火による神明裁判表している。また、熊やすきの刃はアンドー修道院創建まつわる伝説表している。

※この「列聖」の解説は、「リヒャルディス」の解説の一部です。
「列聖」を含む「リヒャルディス」の記事については、「リヒャルディス」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:18 UTC 版)

ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)」の記事における「列聖」の解説

ジャンヌブールジュにおいてフランシスコ会女子修道会であるアノンシアード(受胎告知女子修道会(Sœurs de l'Annonciade)を創立した18世紀ローマ教皇ベネディクトゥス14世によって福者に、20世紀ピウス12世によって聖者に列せられている。

※この「列聖」の解説は、「ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)」の記事については、「ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:28 UTC 版)

ヨゼフ・フライナーデメッツ」の記事における「列聖」の解説

フライナーデメッツとアーノルド・ヤンセンは、共に教皇パウロ6世によって、神言会創立百周年に当たる年の1975年10月19日列福された。 その後1987年3月南山大学在学していた男子学生白血病危篤となったが、フライナーデメッツの取次により完治したことが調査正式に認定され、再びアーノルド・ヤンセンと共に2003年10月5日教皇ヨハネ・パウロ2世により、聖人の列に加えられた。

※この「列聖」の解説は、「ヨゼフ・フライナーデメッツ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ヨゼフ・フライナーデメッツ」の記事については、「ヨゼフ・フライナーデメッツ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:20 UTC 版)

ジャン=マリー・ヴィアンネ」の記事における「列聖」の解説

1874年10月3日教皇ピオ9世は、彼が尊者であることを宣言した1905年1月8日教皇ピオ10世は列福宣言し教区聖職者模範となることを提唱した1925年5月31日教皇ピオ11世は彼を聖人の位に上げ、その祝日8月8日割り当てた1928年には2級祝日としてローマ典礼暦入れられた。彼は1929年教区司祭保護聖人となった1960年には3級祝日格下げとなり、トリエント・ミサ用の1962年版ローマ典礼暦では、そのように祝われている。教皇パウロ6世による聖人の記念日8月4日である。聖人死後150周年記念し教皇ベネディクト16世は、2009年6月から2010年6月までの1年司祭年であると宣言した20世紀フランス代表的なカトリック作家一人であるジョルジュ・ベルナノス代表作田舎司祭の日記』(1936年)は、このヴィアンネの生涯モデルにしている。

※この「列聖」の解説は、「ジャン=マリー・ヴィアンネ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジャン=マリー・ヴィアンネ」の記事については、「ジャン=マリー・ヴィアンネ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:11 UTC 版)

ジャンヌ・ダルク」の記事における「列聖」の解説

詳細は「ジャンヌ・ダルク列聖」を参照 ジャンヌ16世紀フランスのカトリック同盟象徴となっていった。1849年オルレアン大司教任命されたフェリックス・デュパンルー(英語版)がジャンヌ大い賞賛する演説行いフランスのみならずイングランド耳目集めた。デュパンルーのジャンヌ対す高い評価功績紹介は、1909年4月18日ローマ教皇ピウス10世からのジャンヌ列福となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世ジャンヌを列聖した。そしてジャンヌローマ・カトリック教会崇敬されているもっとも有名な聖人一人となっていった。

※この「列聖」の解説は、「ジャンヌ・ダルク」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジャンヌ・ダルク」の記事については、「ジャンヌ・ダルク」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 03:44 UTC 版)

マルタン夫妻」の記事における「列聖」の解説

2008年生後間もなく難病患った乳児福者マルタン夫妻取り次ぎによる奇跡治癒されたのを確認され2015年10月18日ローマ教皇フランシスコにより列聖。夫婦揃っての列聖はカトリック教会史上初である。

※この「列聖」の解説は、「マルタン夫妻」の解説の一部です。
「列聖」を含む「マルタン夫妻」の記事については、「マルタン夫妻」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 09:09 UTC 版)

マルグリット・マリー・アラコク」の記事における「列聖」の解説

マルグリット死後列聖調査開始された。途中フランス革命中断されたが精密な調査の末、1864年ローマ教皇ピウス9世によって列福され、1920年5月13日ローマ教皇ベネディクトゥス15世によって列聖された。祝日10月16日である。

※この「列聖」の解説は、「マルグリット・マリー・アラコク」の解説の一部です。
「列聖」を含む「マルグリット・マリー・アラコク」の記事については、「マルグリット・マリー・アラコク」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:15 UTC 版)

マキシミリアノ・コルベ」の記事における「列聖」の解説

1971年10月17日パウロ6世によって列福され、1982年10月10日同国出身教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。列福式および列聖式の場には、コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され93歳の天寿を全うするまで、コルベに関する講演世界各地続けていた。1998年にはロンドンウェストミンスター教会の扉に「20世紀殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。1982年ポーランドでは“鉄条網背後収容者服姿”の図案記念切手発行された。ジャーナリスト政治犯アマチュア無線薬物中毒者、家族、そしてプロライフ運動の守護聖人である。

※この「列聖」の解説は、「マキシミリアノ・コルベ」の解説の一部です。
「列聖」を含む「マキシミリアノ・コルベ」の記事については、「マキシミリアノ・コルベ」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 10:21 UTC 版)

ニコラス・オーウェン (イエズス会士)」の記事における「列聖」の解説

1929年12月15日教皇ピウス11世によって列福され、1970年教皇パウロ6世によってイングランド及びウェールズ40殉教者英語版)の一人として列聖された。オーウェン個人祝日3月22日である。

※この「列聖」の解説は、「ニコラス・オーウェン (イエズス会士)」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ニコラス・オーウェン (イエズス会士)」の記事については、「ニコラス・オーウェン (イエズス会士)」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 02:36 UTC 版)

シュツェパノフのスタニスラウス」の記事における「列聖」の解説

スタニスラウスの死後、彼を殉教者とする崇拝瞬く間広まった1088年には、彼の遺体クラクフヴァヴェル大聖堂移された。1253年9月17日、スタニスラウスはアッシジにおいて教皇インノケンティウス4世によって列聖された。教皇クレメンス8世は、スタニスラウスの祝日5月7日とした。1969年、スタニスラウスの正確な没日に近いとして教皇庁祝日4月11日とした。ポーランドでは5月8日をスタニスラウスの祝日としている。 スタニスラウスの聖遺物祀るヴァヴェル聖堂は、ほとんどのポーランド王戴冠する国内第一聖堂となったヴワディスワフ1世から、歴代の王聖堂中央置かれ聖スタニスラウスサルコファガス前に膝をついて王冠を受けるのである17世紀当時の王ヴワディスワフ4世ヴァーサは、聖スタニスラウス聖遺物を覆う銀製をつくらせた。大洪水時代スウェーデン軍によって銀製破壊されるが、1670年頃に新しいものに取り替えられた。 毎年5月8日クラクフ司教先導する礼拝行進が行われる。ヴァヴェル聖堂から、聖スタニスラウス殉教した場所であるスカウカ(Skałka)へ向かう。この礼拝行進かつては地元行事で、20世紀になってからグニェズノ及びワルシャワ枢機卿ステファン・ヴィジンスキ(en:Stefan Wyszyński)、のちに教皇ヨハネ・パウロ2世となったクラクフ大司教カロル・ヴォイティワらによって、大衆普及したヨハネ・パウロ2世は、聖スタニスラウス道徳秩序守護聖人としている)。 典拠管理 BNF: cb11984395t (データ) GND: 118901664 ISNI: 0000 0003 7416 8810 LCCN: n79115468 NKC: jx20090518004 NTA: 087839962 SELIBR: 207294 SUDOC: 027901831 VIAF: 35738217 WorldCat Identities: lccn-n79115468

※この「列聖」の解説は、「シュツェパノフのスタニスラウス」の解説の一部です。
「列聖」を含む「シュツェパノフのスタニスラウス」の記事については、「シュツェパノフのスタニスラウス」の概要を参照ください。


列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 01:04 UTC 版)

ジャンヌ・ドゥ・レストナック」の記事における「列聖」の解説

1900年レオ8世により列福1949年5月15日ピオ12世により列聖した。

※この「列聖」の解説は、「ジャンヌ・ドゥ・レストナック」の解説の一部です。
「列聖」を含む「ジャンヌ・ドゥ・レストナック」の記事については、「ジャンヌ・ドゥ・レストナック」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「列聖」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

列聖

出典:『Wiktionary』 (2021/07/30 03:59 UTC 版)

名詞

れっせい

  1. 歴代天子
  2. キリスト教信仰模範となるべき信者を主に死後聖人地位にあげること。

発音(?)

れ↗っせー

翻訳


「列聖」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



列聖と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「列聖」の関連用語

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



列聖のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2024 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの列聖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのリジューのテレーズ (改訂履歴)、母マリヤ (改訂履歴)、キンガ (ポーランド王妃) (改訂履歴)、ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ (改訂履歴)、エリザベス・アン・シートン (改訂履歴)、ヤドヴィガ (ポーランド女王) (改訂履歴)、プラハのアダルベルト (改訂履歴)、ヴァンサン・ド・ポール (改訂履歴)、リマのローザ (改訂履歴)、エドマンド・キャンピオン (改訂履歴)、フォリーニョのアンジェラ (改訂履歴)、トマス・モア (改訂履歴)、ジュゼッピーナ・バキタ (改訂履歴)、ラファエル・アルナイス・バロン (改訂履歴)、リヒャルディス (改訂履歴)、ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505) (改訂履歴)、ヨゼフ・フライナーデメッツ (改訂履歴)、ジャン=マリー・ヴィアンネ (改訂履歴)、ジャンヌ・ダルク (改訂履歴)、マルタン夫妻 (改訂履歴)、マルグリット・マリー・アラコク (改訂履歴)、マキシミリアノ・コルベ (改訂履歴)、ニコラス・オーウェン (イエズス会士) (改訂履歴)、シュツェパノフのスタニスラウス (改訂履歴)、ジャンヌ・ドゥ・レストナック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA) and/or GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblioに掲載されている「Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ)」の記事は、Wiktionaryの列聖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA)もしくはGNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS