教皇ヨハネ・パウロ2世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/04 03:42 UTC 版)
「教会の御母」の記事における「教皇ヨハネ・パウロ2世」の解説
聖ホセマリア・エスクリバーの後押しによって始まったUNIV国際大学生会議という大学生の集いの参加者の一人の青年が1980年の聖週間にヨハネ・パウロ2世にお会いした時に、聖ペトロ広場に162位の聖人彫刻があるものの、聖母マリア像は一つもないことを伝えたことに対して、教皇は「そしたら、広場を完成させなければならない」と答えた。聖ホセマリアの後継者である福者アルバロ・デル・ポルティーリョがその話を聞いた時に、ハビエル・コテロというスペイン人の建築家に聖母像を置くのに相応しい場所を探して欲しいと依頼した結果、聖ペトロ大聖堂正面の右側にある建物の窓を使い、聖母マリアのモザイク画を取り付けることを提案した。この案が受け入れられ、1981年12月7日に設置された。翌日の1981年12月8日(無原罪の聖母の祝日)に教皇ヨハネ・パウロ2世が部屋の窓からこのモザイク画を祝福したのである。これが聖ペトロ広場の完成を示す「最後の石」とされる。 また、このモザイク画の設置は、1981年の教皇の命を狙った暗殺未遂事件の後であり、教皇の命が救われたことについて、聖母の執り成しが働いたことに対する感謝の気持ちから来ているものである。 1987年、教皇は「教会の御母」の称号を回勅である「救い主の御母」(Redemptoris Mater)の中において繰り返して使い、1997年9月17日に一般の観客で読み上げた。 「教会の御母」という称号に関して、教皇は「救い主の御母」(Redemptoris Mater)という言葉を使った。これは聖母マリアがキリストを真摯に信仰する者の母であるということは、マリアがキリストの母であることに由来する、ということ、同様にいかに教会全体のお手本・模範として尽くしているか、ということを説明するものである。このことについて、教皇は次のように述べている。 マリアはキリストの母として教会の中に存在し、それと同時にこの母は人類の贖罪の秘法でもある。キリストは使徒聖ヨハネにマリアをその母とされた(ヨハネ伝19:27)。これはキリストがマリアをその贖罪の秘法として人類にお与えになったのである。それゆえに、新しい母性の精神で、マリアは教会に属する全てのものをひとりずつ愛情をこめて包み込むのである。 この意味において、神の御母なるマリアは、教会の模範でもある。実に、教皇パウロ6世が望み、そして求めたように、教会は乙女である神の母を、キリストを完全に模倣した最も完璧な姿として、描かなければならない。 1997年9月17日、ヨハネ・パウロ2世は水曜日の教皇一般謁見で、「教会の御母」の称号を聖母マリアに当てはめることについて述べた。 信徒たちが最初に、マリアを「神の母」「信徒たちの母」または「我らの御母」の称号で呼ぶのは、マリアと信徒それぞれの関係を強調することである。後に教会の神秘とマリアと教会の関係について、より多く注意を払うようになったのは、聖母マリアに「教会の母」として、今までよりも頻繁に救いを求めるようになったためである。」 「教会の御母」の称号は、それゆえにキリスト者の深い信念を映し出す。キリスト者は、マリアがキリストの御母というだけでなく、キリスト者たちの御母でもあることを知る。
※この「教皇ヨハネ・パウロ2世」の解説は、「教会の御母」の解説の一部です。
「教皇ヨハネ・パウロ2世」を含む「教会の御母」の記事については、「教会の御母」の概要を参照ください。
- 教皇ヨハネ・パウロ2世のページへのリンク