上陸後
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サンサポール地区を制圧した連合軍は、ミッテルバーグ島に戦闘機用基地、サンサポールおよびマル地区に爆撃機用基地の設営を開始し、基地は第13空軍によって運用されることとなった。前者は8月7日に使用可能となって9月8日に完成し、後者は9月3日に供用を開始して9月の末には完成を見た。航空基地の完成は、ソロン方面の日本側の制空権が失われたことを意味し、セラム島、ハルマヘラ、セレベスおよびミンダナオ島の制空権も著しく衰退した。また、ソロンとマノクワリ間の交通も完全に遮断されてマノクワリ方面の日本軍部隊は以降、自給自足の生活を余儀なくされることとなった。 サンサポール地区は、連合軍がフィリピンに進んだあとも後方補給基地やセレベス、セラム方面への航空圧力のための基地として活用されていた。戦線がサンサポールから遠ざかった1945年3月上旬から中旬にかけて、第三十五師団の一部が攻勢をとって連合軍の牽制を開始したが、その過程で一つのことが明らかになった。第三十五師団の牽制作戦が行われたころのサンサポール地区の航空基地は、使われている形跡がなかった。第三十五師団から報告を受けた第七飛行師団から偵察機が飛ばされたが、一時は300機もいた航空機はその姿なく滑走路も破壊されており、サンサポール地区が基地として利用されていないことが明らかとなった。この報を受け、第三十五師団の作戦も打ち切られて監視部隊のみを残し、ソロンに撤退していった。 連合軍は4月下旬のホーランジアの戦いからサンサポール地区の確保まで、約550マイルの距離を、アイランドホッピング戦法でわずか3か月で踏破した。サンサポールこそは、マッカーサーがフィリピンへの帰還を果たすためにニューギニア島に設けられた最後の拠点であり、マッカーサーがコレヒドール島を脱出後も夢にも忘れなかったフィリピンは、サンサポールから北モルッカとタラウド諸島を挟んで500マイル離れた彼方にあったが、それはホーランジアからサンサポールまでの距離と大して変わらなかった。
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上陸後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 15:36 UTC 版)
15日夜、上陸作戦に呼応して、釜山橋頭堡の戦いで、洛東江防御線の第8軍でも「スレッジハンマー作戦」が下達され、16日午前0時に発動が命令された。 上陸二日目の9月16日、第5海兵連隊は金浦飛行場へ、第1海兵連隊はソウル - 仁川の街道の制圧を開始したが、依然北朝鮮軍の反撃は散発的であった。第1海兵連隊の8輌のM26重戦車が6輌のT-34-85戦車に遭遇したものの、短時間の戦闘でT-34は撃破された。 上陸三日目の9月17日、第5海兵連隊第2大隊が金浦飛行場を無傷のまま奪還した。第7歩兵師団は第8軍との合流のため京釜本道を南へ進撃した。 同日、北朝鮮空軍の2機のYak-9が仁川港外の上陸艦隊に攻撃を行い、重巡洋艦ロチェスターとイギリス軽巡洋艦ジャマイカが損傷を受けた。 9月18日には朝鮮半島東海岸での陽動作戦を終えた戦艦ミズーリが回航され、第7歩兵師団への支援砲撃を開始した。 金浦飛行場からソウルまでは約13キロメートルであり、その間には漢江が流れていた。第1海兵連隊と第5海兵連隊は二つのルートに分かれてソウルに向かった。第1海兵連隊は北朝鮮軍第70連隊や第87連隊と戦闘を行いつつ、漢江を渡河、ソウル市内に達した。第5海兵連隊は漢江を渡河した後、ソウルの西方を目指した。ここで高地に展開する北朝鮮軍と白兵戦を行いつつも、9月25日にはソウルに達した。 9月26日、大邱より北に進撃した第1騎兵師団は烏山で第10軍団と合流した。 第1海兵連隊は9月26日深夜から27日にかけて市街戦を行い、28日には議政府市に到達。翌日、小規模な反撃が行われたのを最後に戦闘は終結。9月29日にはソウルの奪還はほぼ完了し、李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。 補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は38度線から300キロメートル以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗していた。兵力の3分の2が実際は韓国内で強制徴募した新兵で、抗命への即時射殺命令で部隊が維持されている状態だった。北朝鮮軍の補給路は朝鮮半島の道路網上、一度ソウルを通過する形をとっており、仁川への上陸で補給路を大きく断たれることとなった。
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