釜山橋頭堡の戦いとは? わかりやすく解説

釜山橋頭堡の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 02:41 UTC 版)

釜山橋頭堡の戦い(プサンきょうとうほのたたかい, 英語: Battle of Pusan Perimeter)は、朝鮮戦争中の1950年8月から9月にかけて、釜山付近に集結したアメリカ軍を主力とする国連軍[† 1]と、朝鮮半島の大部分の地域を制圧していた朝鮮民主主義人民共和国軍(北朝鮮軍)の間で行われた戦闘である。


注釈

  1. ^ 1950年6月27日に国際連合安全保障理事会が北朝鮮を侵略者と認定する決議を行ったことに基づく。国際連合憲章第7章に基づく国連軍ではない。
  2. ^ 仁川港への上陸は9月15日。
  3. ^ 7月22日に戦死と認定。実際は1ヶ月のゲリラ活動の後、捕虜となった。北朝鮮が捕虜とした事実を発表するまで戦死したと考えられていた。
  4. ^ ミカエリスとも。第二次世界大戦中、第101空挺団参謀長。ボウリング場の戦いの後、大佐に昇進。のち大将、第8軍司令官。
  5. ^ 連隊本部は沖縄に残った。
  6. ^ 八路軍で10年以上指揮官として活躍した経験を持つ軍事指導者。
  7. ^ 7月18日に少将に昇進、ディーン少将が戦死と認定された7月22日に師団長に就任。
  8. ^ 朝鮮戦争開戦時、最前線の甕津半島で36時間にわたり北朝鮮軍に抵抗したのち、船で仁川へ撤退した。
  9. ^ 白善燁の実弟。
  10. ^ 第24連隊は実戦投入された最後の黒人兵部隊で、日本を出発する直前に小倉黒人米兵集団脱走事件を起こした。
  11. ^ ハワイ常駐の3個大隊編成の独立した戦闘団で日系2世が多く第442連隊戦闘団出身者もおり、諸兵科連合の精鋭であった。
  12. ^ 黄埔軍官学校抗日軍政大学出身。八路軍ののちソ連軍少佐。
  13. ^ 新編成部隊であり、練度は低かった。
  14. ^ 第1・第3大隊欠
  15. ^ 捕虜の証言から、手違いにより主力の渡河が遅れたものと思われる。
  16. ^ 仁川上陸作戦時に再び第17連隊長。
  17. ^ 白が「金は連隊本部で指揮し、朴は第1線の戦闘指導」との決裁を下したため、連隊長が2人となっていた。
  18. ^ 白は29歳。マイケレスは33歳。
  19. ^ それまでの投降者の中で最高位であった。韓国軍に編入され、のちに少将。1974年、予備役編入。
  20. ^ のち、ベトナム戦争時の陸軍参謀総長。
  21. ^ 元国民学校教師。1946年北朝鮮労働党入党。1952年5月7日に巨済島捕虜収容所英語版で発生した巨済島事件朝鮮語版の首謀者。

出典

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  2. ^ a b 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 33
  3. ^ a b 朝鮮戦争 (下) (歴史群像シリーズ (61) 1999, p. 149
  4. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 3
  5. ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 78
  6. ^ 児島襄 1984, p. 223
  7. ^ 児島襄 1984, p. 206 ff
  8. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 7
  9. ^ 児島襄 1984, p. 213
  10. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 15
  11. ^ 児島襄 1984, p. 215
  12. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 21
  13. ^ a b 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 23
  14. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 25
  15. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 28
  16. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 35
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  48. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 187
  49. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 190
  50. ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 93 f
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  80. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 47
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  83. ^ a b 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 78
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  85. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 93-110
  86. ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 131
  87. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 80 ff
  88. ^ 田中恒夫 1998, p. 59
  89. ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 137
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  91. ^ 児島襄 1984, p. 373
  92. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 115 f
  93. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 120 f
  94. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 120
  95. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 265
  96. ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 75
  97. ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 101



釜山橋頭堡の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:08 UTC 版)

金弘壹」の記事における「釜山橋頭堡の戦い」の解説

8月1日安東撤収作戦大損害を受けた8月中旬杞渓・安康の戦い北朝鮮第12師団殲滅した。その後慶州の戦いでは再編され第12師団苦戦し27日に再び杞渓を占領された。 9月1日軍団長解任され陸軍綜合学校校長となる。理由慶州方面投入されジャクソン支隊Task Force Jackson)を指揮していたジョン・コールター少将前進命令受けたが、命令聞かず部隊動かさないので、アメリカ軍指揮官の交代要請されたためであるという。第3師団長の金錫源一緒に解任されており、2人とも韓国軍内でも数少ない正規戦闘経験がある指揮官であったため、この人事は当時でも疑問視され、国会で派閥による人事措置批判された。これに対して申性模は、第8軍司令官ウォーカー中将建議受け入れたためだと明かし、ムチオ大使はこの状況アメリカ国防省報告した金錫源は、このことについて『老兵の恨』で「金弘壱少将後方配置し金白一准将軍団長になったのには、唖然失色せざるを得なかった。いくら好意的に解釈しようとして判断苦し処置であった。」と書いている。 1951年3月、任中将予備役編入

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釜山橋頭堡の戦い

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金鐘五」の記事における「釜山橋頭堡の戦い」の解説

8月2日第2軍団命令により第6師団洛東江渡河して龍基洞一帯配備した8月3日洛東江渡河した北朝鮮軍第1師団攻撃開始した8月攻勢)。第6師団一進一退の攻防繰り広げながら軍威南側新寧まで後退した新寧では北朝鮮軍第8師団呉白龍少将)が加わり8月中、第6師団は2個師団交戦した9月攻勢第6師団北朝鮮軍第8師団交戦した9月5日右翼北朝鮮軍第8師団撃退され永川危機的状況となっていたので第1師団は第11連隊第6師団は第19連隊軍団差し出した9月6日北朝鮮軍第8師団一斉に攻撃開始した天候悪く航空機爆撃が無いと踏んだのか昼間攻撃した第6師団の卞特攻隊先鋒戦車8輌を破壊した北朝鮮軍第8師団アメリカ空軍大規模な爆撃大きな打撃を受け、以後夜間小部隊で前哨陣地襲撃する程度になった北朝鮮軍では日毎投降脱走する兵士増加し守勢転じることとなった

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