釜山橋頭堡の戦い
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釜山橋頭堡の戦い(プサンきょうとうほのたたかい, 英語: Battle of Pusan Perimeter)は、朝鮮戦争中の1950年の8月から9月にかけて、釜山付近に集結したアメリカ軍を主力とする国連軍[† 1]と、朝鮮半島の大部分の地域を制圧していた朝鮮民主主義人民共和国軍(北朝鮮軍)の間で行われた戦闘である。
注釈
- ^ 1950年6月27日に国際連合安全保障理事会が北朝鮮を侵略者と認定する決議を行ったことに基づく。国際連合憲章第7章に基づく国連軍ではない。
- ^ 仁川港への上陸は9月15日。
- ^ 7月22日に戦死と認定。実際は1ヶ月のゲリラ活動の後、捕虜となった。北朝鮮が捕虜とした事実を発表するまで戦死したと考えられていた。
- ^ ミカエリスとも。第二次世界大戦中、第101空挺団参謀長。ボウリング場の戦いの後、大佐に昇進。のち大将、第8軍司令官。
- ^ 連隊本部は沖縄に残った。
- ^ 八路軍で10年以上指揮官として活躍した経験を持つ軍事指導者。
- ^ 7月18日に少将に昇進、ディーン少将が戦死と認定された7月22日に師団長に就任。
- ^ 朝鮮戦争開戦時、最前線の甕津半島で36時間にわたり北朝鮮軍に抵抗したのち、船で仁川へ撤退した。
- ^ 白善燁の実弟。
- ^ 第24連隊は実戦投入された最後の黒人兵部隊で、日本を出発する直前に小倉黒人米兵集団脱走事件を起こした。
- ^ ハワイ常駐の3個大隊編成の独立した戦闘団で日系2世が多く第442連隊戦闘団出身者もおり、諸兵科連合の精鋭であった。
- ^ 黄埔軍官学校、抗日軍政大学出身。八路軍ののちソ連軍少佐。
- ^ 新編成部隊であり、練度は低かった。
- ^ 第1・第3大隊欠
- ^ 捕虜の証言から、手違いにより主力の渡河が遅れたものと思われる。
- ^ 仁川上陸作戦時に再び第17連隊長。
- ^ 白が「金は連隊本部で指揮し、朴は第1線の戦闘指導」との決裁を下したため、連隊長が2人となっていた。
- ^ 白は29歳。マイケレスは33歳。
- ^ それまでの投降者の中で最高位であった。韓国軍に編入され、のちに少将。1974年、予備役編入。
- ^ のち、ベトナム戦争時の陸軍参謀総長。
- ^ 元国民学校教師。1946年北朝鮮労働党入党。1952年5月7日に巨済島捕虜収容所で発生した巨済島事件の首謀者。
出典
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- ^ a b 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 23
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- ^ a b 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 99
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- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 42-48
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- ^ 児島襄 1984, p. 373
- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 115 f
- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 120 f
- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争5 1969, p. 120
- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 265
- ^ 陸戦史研究普及会 編 朝鮮戦争2 1971, p. 75
- ^ 朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60) 1999, p. 101
釜山橋頭堡の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:08 UTC 版)
8月1日の安東撤収作戦で大損害を受けた。 8月中旬、杞渓・安康の戦いで北朝鮮第12師団を殲滅した。その後の慶州の戦いでは再編された第12師団に苦戦し、27日に再び杞渓を占領された。 9月1日、軍団長を解任され陸軍綜合学校校長となる。理由は慶州方面に投入されたジャクソン支隊(Task Force Jackson)を指揮していたジョン・コールター少将の前進命令を受けたが、命令を聞かず部隊を動かさないので、アメリカ軍に指揮官の交代を要請されたためであるという。第3師団長の金錫源も一緒に解任されており、2人とも韓国軍内でも数少ない正規戦闘の経験がある指揮官であったため、この人事は当時でも疑問視され、国会では派閥による人事措置と批判された。これに対して申性模は、第8軍司令官ウォーカー中将の建議を受け入れたためだと明かし、ムチオ大使はこの状況をアメリカ国防省に報告した。金錫源は、このことについて『老兵の恨』で「金弘壱少将を後方に配置し、金白一准将が軍団長になったのには、唖然失色せざるを得なかった。いくら好意的に解釈しようとしても判断に苦しむ処置であった。」と書いている。 1951年3月、任中将、予備役編入。
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釜山橋頭堡の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:39 UTC 版)
8月2日、第2軍団の命令により第6師団は洛東江を渡河して龍基洞一帯に配備した。 8月3日、洛東江を渡河した北朝鮮軍第1師団が攻撃を開始した(8月攻勢)。第6師団は一進一退の攻防を繰り広げながら軍威南側の新寧まで後退した。新寧では北朝鮮軍第8師団(呉白龍少将)が加わり8月中、第6師団は2個師団と交戦した。 9月攻勢で第6師団は北朝鮮軍第8師団と交戦した。 9月5日、右翼の北朝鮮軍第8師団が撃退され永川が危機的状況となっていたので第1師団は第11連隊、第6師団は第19連隊を軍団に差し出した。 9月6日、北朝鮮軍第8師団は一斉に攻撃を開始した。天候が悪く航空機の爆撃が無いと踏んだのか昼間に攻撃した。第6師団の卞特攻隊は先鋒の戦車8輌を破壊した。北朝鮮軍第8師団はアメリカ空軍の大規模な爆撃で大きな打撃を受け、以後は夜間に小部隊で前哨陣地を襲撃する程度になった。北朝鮮軍では日毎に投降、脱走する兵士が増加し、守勢に転じることとなった。
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