永川の戦いとは? わかりやすく解説

永川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/02 08:46 UTC 版)

永川の戦い
戦争:朝鮮戦争
年月日1950年9月2日 - 13日
場所大韓民国慶尚北道永川市
結果:国連軍の勝利
交戦勢力
国連軍
北朝鮮
指導者・指揮官
劉載興准将
李成佳准将
武亭中将
朴成哲少将
趙烈光少将
戦力
15,000名[1] 推定12,000名[1]

永川の戦い日本語:ヨンチョンのたたかい、ようせんのたたかい、韓国語:永川戰鬪、영천 전투)は、朝鮮戦争中の1950年9月に起きた大韓民国陸軍(以下韓国軍)及び朝鮮人民軍(以下人民軍)による戦闘。

経緯

永川大邱慶州のほぼ中間にあり、中央線大邱線の分岐点である[2]。永川を押さえて東に向かえば韓国軍第1軍団、西に向かえば韓国軍第2軍団の後方を遮断できるので8月末から永川が重視されていた[2]。この正面には第1軍団左翼の第8師団が担当していた。第8師団は正面18キロの戦線を、西から第21連隊、第3連隊第1大隊(大隊長:鄭震少領)、第16連隊、第5連隊を配備して防御していた。隷下の第10連隊は浦項正面に転用されていた[3]

編制

国連軍

人民軍

  • 第2軍団 軍団長:武亭中将
    • 第15師団 師団長:朴成哲少将(9月5日から趙烈光少将[4]
      • 第48連隊 連隊長:金致九大佐
      • 第49連隊 連隊長:李鉄英総佐
      • 第50連隊 連隊長:李乙雪総佐
      • 砲兵連隊 連隊長:李連燮大佐
    • 第73独立連隊 連隊長:李周容中佐
    • 第103連隊 連隊長:李鍾萬大佐

戦闘

第8師団の正面には、遊鶴山から転進してきた人民軍第15師団が9月2日からこの正面に攻撃を開始していた[3]。しかし9月4日、朴成哲少将は武亭中将から「崔仁斗同志の率いる第12師団は安康里の線を突破して慶州を占領した。それなのに朴同志の師団はなぜ永川を占領できないのか?」と激しく叱責された[3]

9月5日午前1時、第15師団は3個連隊を並列して、第73独立連隊と第103連隊を予備とし、各種砲166門の支援をもとに攻勢を開始した[3]。この日は豪雨により第8師団は航空支援を受けられず、さらに混戦状態になったため砲兵支援もできなかった[5]。第8師団の中央は突破され、永川に危機が迫った。

この事態に陸軍本部は、永川から慶州に転進中の第18連隊から第2大隊を抽出して第8師団に配属した[5]。そして第8師団は第2軍団に隷属させて、劉載興軍団長に事態の収拾を命じた[5]。劉載興軍団長は第1師団(師団長:白善燁准将)から第11連隊、第6師団(師団長:金鐘五准将)から第19連隊を抽出して第8師団に配属した。またウォーカー中将に戦車1個小隊(M46パットン5両)の支援を要請した[6]

9月6日早朝、第15師団が永川を占領した。この時、韓国軍は永川西側を雑多な部隊が防御していたに過ぎず、第15師団が永川から西西南15キロにある河陽に突進すれば第2軍団は崩壊する可能性があった[7]。ところが第15師団は慶州方面に南下した[7]。このため第8師団長・李成佳准将は第9工兵大隊(大隊長:金黙少領)に永川を奪還させた[7]。やがて人民軍が反撃してきたが、来援した米軍戦車小隊の支援を受けてこれらを撃退した[8]。9月7日から韓国軍の反撃が開始された。13日まで戦闘が続き、第15師団は殲滅された。韓国軍の戦果は射殺3,999名、捕虜309名、戦車5両、装甲車2両、トラック85両、各種砲14門、火器2,327丁を破壊または鹵獲した[1]

出典

参考文献


永川の戦い

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釜山橋頭堡の戦い」の記事における「永川の戦い」の解説

北朝鮮第15師団北部戦線要衝永川ヨンチョン)の韓国第8師団攻撃開始した永川道路と鉄道集約点であり、北朝鮮軍占領すれば大邱慶州への進出が可能となるばかりか韓国第1軍団第2軍団分離され国連軍補給路も遮断されることになる。韓国軍第2軍団長の劉載興准将第8師団併せて指揮させた。劉准将永川西方戦闘中第1師団第6師団から1個連隊ずつ抽出し、丁参謀総長と共にウォーカー中将戦車部隊要請したウォーカー中将1日だけ戦車小隊韓国軍回した第8師団防御努めたものの永川9月6日未明占領された。しかし師団工兵隊M46パットン1個小隊投入され永川奪回された。韓国軍永川の南4キロメートル防御線を築き永川争奪戦繰り広げながら反撃体制整えた9月9日に劉准将指揮の下、総反撃開始韓国第8師団、第19連隊、第11連隊による包囲攻撃により北朝鮮第15師団壊滅し9月13日には戦線をほぼ回復した

※この「永川の戦い」の解説は、「釜山橋頭堡の戦い」の解説の一部です。
「永川の戦い」を含む「釜山橋頭堡の戦い」の記事については、「釜山橋頭堡の戦い」の概要を参照ください。

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