北部戦線
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北部戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:06 UTC 版)
「ポーランド・ロシア戦争 (1792年)」の記事における「北部戦線」の解説
リトアニア大公国領における戦争は、5月22日のロシア軍侵攻により始まった。南部での開戦から4日後のことだった。ポニャトフスキがプロイセンの援軍を期待していたのに対し、プロイセンはこれに答えるどころか逆に同盟を破棄し、リトアニア方面の司令官だったルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルクも、自身がロシア皇太子妃の実兄であることからロシアと戦うことを拒否し、ポーランド・リトアニア共和国を裏切って戦線離脱してしまった。彼は最前線に向かわず、仮病をつかってヴォワチンに居座り、麾下の部隊に矛盾した命令を出した。 このためリトアニア軍はロシア軍に対し有効な抵抗ができず、撤退し続けるほかなかった。5月31日、リトアニア軍は小競り合いの後にミンスクを放棄した。ヴュルテンベルクに代わって6月4日に司令官の座に就いたユゼフ・ユディツキは、ロシア軍に立ち向かいこれを押しとどめようとした が、6月11日のミールの戦いで敗れ、リトアニアにおけるロシア軍の侵攻を止められなかった。ポーランド・リトアニア軍はグロドノへ退却した。6月14日、ロシア軍はヴィルノを占領した。この時、ポーランド側は少数の守備兵がごく小規模な小競り合いを演じただけだった。6月19日には若干の抵抗の末にニェシュヴィエズが、翌20日には全く戦闘無しにカウナスが占領された。面目を失ったユディツキに代わり、6月23日にミハウ・ザビェウォが司令官となった。ミールの戦い以降、ポーランド軍はひたすらワルシャワに向かって撤退するばかりでロシア軍と大規模な戦闘を行うことをせず、ジェルヴァでの小競り合いに敗れた 後はブレスト付近のブク川に沿って防衛陣地を敷き始めた。ロシア軍は7月5日にグロドノを、7月17日にビャウィストクを占領した。さらに7月23日にブレストの守備兵を破ってこれを占領したが、翌24日にクシェミエン=ビエシ付近でポーランド軍に敗れた。この戦いが、北部戦線のポーランド軍にとって最後の戦闘かつ初めての明確な勝利だった。
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北部戦線
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北部戦線
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北部を担当していたヴァルター・モーデル上級大将率いる中央軍集団の第9軍は、攻撃対象のロコソフスキーの中央方面軍に加えて北側面のマルキアン・ポポフ大将のブリャンスク正面軍を警戒する必要があり、機甲部隊主力(エーゼベック軍支隊)を機動防御に転用可能な第二陣に拘置。まずは第20装甲師団だけを投入し、突撃砲に支援された歩兵師団主体による攻撃を開始した。5回の攻撃を繰り返したものの、ソ連側陣地の防御は固く、7,200名の損耗を出しながらもオリホヴァートカ方面で3-6km前進したのみで1日目を終えた。6日には赤軍も第2戦車軍に第19戦車軍団ら増援を加えて反撃し、大規模な戦車戦が勃発。ティーガー戦車の威力は絶大で赤軍先鋒の第107戦車旅団はわずか数分で戦車50両中46両を喪い後退した。7日からは攻撃の主軸を鉄道線上のポヌイリ市に変更して攻撃を再開、第18装甲師団の支援を受けた2個歩兵師団が「第二のヴェルダン」と呼ばれる激戦を繰り広げ、8日夜には市の大半を占領した。同8日にクルスク市を見下ろすオリホヴァートカ高地を巡っても激戦が続いたが、ソ連側陣地を突破することができず、赤軍第16、19戦車軍団の到着を受けて翌9日に攻撃を中止した。7月10日、赤軍は最後の予備兵力である第9戦車軍団を投入、モーデルも切り札の第12装甲師団を最右翼に配置し、12日から南西を重点にオリホヴァートカの迂回攻撃を試みた。しかし11日から赤軍の“クトゥーゾフ”攻勢の予備攻撃(12日より本攻勢)が開始、補給地点オリョールを守る第2装甲軍を救援するためモーデルは攻勢を中止した。
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