北部担当国務大臣とは? わかりやすく解説

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北部担当国務大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 14:35 UTC 版)

グレートブリテン王国
北部担当国務大臣
Secretary of State for the Nouthern Department
種類 閣内大臣
所属機関 内閣
指名 首相
任命 国王(女王)
任期 なし
創設 1660年
初代 ウィリアム・モーリス英語版
最後 第7代ストーモント子爵デイヴィッド・マレー
廃止 1782年

北部担当国務大臣(ほくぶたんとうこくむだいじん、英語: Secretary of State for the Northern Department)は、グレートブリテン王国に設けられていた内閣の役職である。北部省英語版を管轄していたが、1782年内務省に移管され廃止された。

歴史

1660年に二人制だった国王秘書長官(国務大臣)が職務を分割されたのが始まりで、北部担当国務大臣と南部担当国務大臣が創設された[1]

1707年合同法施行前、国務大臣の責務はイングランド政府に果たされており、スコットランドを含むグレートブリテン全域を覆っているわけでは無かった。スコットランドとの連合王国成立後も、空席を挟んではいたが1746年までスコットランド大臣が役職として置かれていた。

元々北部担当国務大臣も南部担当国務大臣も権限ではなく地理的要素によって分けられていた。なお、北部担当国務大臣のほうが後に設置された役職である。北部担当国務大臣は北欧プロテスタント諸国との外交を担っており、南部担当国務大臣はヨーロッパカトリック及びイスラム諸国と関係を持っていた。1782年に北部省が内務省に、南部省英語版外務省に移管された[1]

18世紀、貴族階級の人物が北部担当国務大臣に就いていた場合はしばしば貴族院院内総務も兼任していた。

歴代大臣

以下1660年~1782年[2]

写真 名前 在任期間
サー・ウィリアム・モーリス英語版 1660年5月27日 1668年9月29日
サー・ジョン・トレヴァー英語版 1668年9月29日 1672年7月8日
ヘンリー・コヴェントリー英語版 1672年7月8日 1674年9月11日
サー・ジョセフ・ウィリアムソン英語版 1674年9月11日 1679年2月20日
第2代サンダーランド伯爵ロバート・スペンサー 1679年2月10日 1680年4月26日
サー・レオライン・ジェンキンス英語版 1680年4月26日 1681年2月2日
初代コンウェイ伯爵エドワード・コンウェイ英語版 1681年2月2日 1683年1月
第2代サンダーランド伯爵ロバート・スペンサー 1683年1月28日 1684年
シドニー・ゴドルフィン 1684年4月17日 1684年8月24日
第2代ミドルトン伯爵チャールズ・ミドルトン英語版 1684年8月24日 1688年10月28日
初代プレストン子爵リチャード・グラハム英語版 1688年10月29日 1688年12月2日
第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチ 1689年3月5日 1690年12月26日
初代シドニー子爵ヘンリー・シドニー 1690年12月26日 1692年3月3日
サー・ジョン・トレンチャード英語版 1693年3月23日 1694年3月2日
初代シュルーズベリー公爵チャールズ・タルボット 1694年3月2日 1695年5月3日
サー・ウィリアム・トランブル英語版 1695年5月3日 1697年12月2日
ジェームス・ヴァーノン英語版 1697年12月2日 1700年11月5日
サー・チャールズ・ヘッジス英語版 1700年11月5日 1701年12月29日
ジェームス・ヴァーノン英語版 1702年1月4日 1702年5月1日
サー・チャールズ・ヘッジス英語版 1702年5月2日 1704年5月18日
ロバート・ハーレー 1704年5月16日 1708年2月13日
ヘンリー・ボイル 1708年2月13日 1710年9月21日
初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョン 1710年9月21日 1713年8月17日
サー・ウィリアム・ブロムリー 1713年8月17日 1714年9月17日
第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド 1714年9月17日 1716年12月12日
第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー 1717年4月12日 1718年3月2日
初代スタンホープ伯爵ジェームズ・スタンホープ 1718年3月19日 1721年2月4日
第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド 1721年2月6日 1730年5月16日
初代ハリントン男爵ウィリアム・スタンホープ 1730年6月19日 1742年2月12日
第2代カートレット男爵ジョン・カートレット 1742年2月12日 1744年11月24日
初代ハリントン伯爵ウィリアム・スタンホープ 1744年11月24日 1746年1月
第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレット 1746年2月12日 1746年3月
初代ハリントン伯爵ウィリアム・スタンホープ 1746年3月 1746年10月19日
第4代チェスターフィールド伯爵フィリップ・スタンホープ 1746年10月29日 1748年2月6日
初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ 1748年2月6日 1754年3月23日
第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシー 1757年4月 1757年6月
第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート 1761年3月25日 1762年5月27日
ジョージ・グレンヴィル 1762年6月5日 1762年10月9日
第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンク 1762年10月14日 1763年9月9日
第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー 1763年9月9日 1765年7月10日
第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンク 1763年9月 1765年7月
第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイ 1765年7月12日 1766年5月14日
ヘンリー・シーモア・コンウェイ 1766年5月23日 1768年1月20日
第3代ウェイマス子爵トマス・シン 1768年1月20日 1768年10月21日
第4代ロッチフォード伯爵ウィリアム・ナッソー・ド・ザイレステイン 1768年10月21日 1770年12月19日
第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー 1770年12月19日 1771年1月12日
第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンク 1771年1月22日 1771年6月6日
第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード 1771年6月12日 1779年3月7日
第7代ストーモント子爵デイヴィッド・マレー 1779年10月27日 1782年3月27日

脚注

  1. ^ a b 松村、P672。
  2. ^ Lists of appointments British History Online” (英語). www.british-history.ac.uk. Originally published by University of London, London, 1973. 2017年3月12日閲覧。

参考文献


北部担当国務大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)

ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の記事における「北部担当国務大臣」の解説

アン治世ではスペイン継承戦争課題として示され大蔵卿英語版シドニー・ゴドルフィン友人イングランド総司令官初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル大陸へ送り出して後方イングランド支え役目負っていた。ハーレートーリー党員だが穏健派であるためゴドルフィン協力急進派初代ロチェスター伯爵ローレンス・ハイド第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチとは一線を画していた。1702年ロチェスターが、1704年ノッティンガム政権を去ると1704年4月27日枢密顧問官任命され、さらに同年5月18日に北部担当国務大臣に選ばれ閣僚入りしてゴドルフィンと共に穏健派として政権率い立場になったハーレー国務大臣就任した後も1705年4月議会解散まで庶民院議長留任した。 しかし、1705年ホイッグ党議会与党になり、ゴドルフィン政権運営のため閣僚にホイッグ党員を入れた頃から警戒し始めたスコットランドとの合同交渉では1706年4月10日イングランド代表の1人選出されたが、12月ゴドルフィンスコットランドイングランド合同必要性ホイッグ党要求第3サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー南部担当国務大臣起用するゴドルフィン不信感抱いたアン接近したグレートブリテン王国成立した1707年アン親友マールバラ公の妻サラ・ジェニングスアン衝突サラ従妹ハーレー又従妹でもあるアビゲイル・メイシャムアン信頼を得ると、アビゲイル通してアン側近となりゴドルフィンから離れていった。1708年には第3準男爵サー・ウィリアム・ドーズ(英語版)がチェスター主教英語版)に、オフスプリング・ブラッコール(英語版)がエクセター主教英語版)に任命されたが、ゴドルフィン2人任命をめぐりハーレーが(大臣間の協議なく)独断アン女王相談して任命決めた疑いハーレーアン女王それぞれ否認したもののハーレーとゴドルフィン・マールバラの間の不信感増大した

※この「北部担当国務大臣」の解説は、「ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の解説の一部です。
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