野党期(1765年 – 1770年)
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「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の記事における「野党期(1765年 – 1770年)」の解説
戦時大臣を辞任した後、国王ジョージ3世に対し「陰謀を弄したことがなく、疑いや誤解を招かないよう他人とつるまなかった」(I have neither intrigued nor caballed; I have in a great degree secluded myself from company to avoid all suspicion and misrepresentation)、「国王陛下からの好意を確信している」(have rested with a most resigned confidence in your Majesty’s goodness to me)と述べ、ジョージ3世からエリスが忘れられることはないとの返答を受けた。しかし、陸軍支払長官(英語版)への共同就任の噂を聞くとそれに抗議して、代わりにアイルランド副大蔵卿への再任を強く求めたが、半年後になっても就任はかなわなかった。ジョージ3世はエリスの米州植民地への強硬な態度を知ると、第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイが辞任した後の内閣改造において、1766年7月/9月にエリスを大ピットに推薦したが、大ピットに拒否された。 議会では植民地への態度を変えず、1766年2月に印紙法廃止への反対演説をしたうえで反対票を投じた。チャタム伯爵内閣期では1766年12月に大ピット(1766年にチャタム伯爵に叙爵)のイギリス東インド会社調査議案への反対演説をしたが、それ以外では1767年2月の土地税法案、1768年2月のヌルム・テンプス法案(Nullum Tempus Bill)に賛成、グラフトン公爵内閣期では1769年のジョン・ウィルクス当選問題において政府を支持した。 エイルズベリー選挙区では有権者との関係がうまくいなかった。(戦時大臣の辞任直後である)1765年8月時点ではすぐに官職に任命されると予想されたため、官職就任に伴う出直し選挙を準備したが、1761年の総選挙と1762年の官職就任に伴う出直し選挙ですでに2度金銭を支払ったにもかかわらず、再度支払いを求められた。エリス自身によれば、支払いを渋って交渉しようとしても、エイルズベリーの有権者は値段を下げず、代わりに他人を当選させるという。いずれにせよ、エリスは1768年イギリス総選挙でピーターズフィールド選挙区(英語版)から出馬して当選した。
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野党期
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「チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)」の記事における「野党期」の解説
急進的で共和主義者だったことからホイッグ党嫌いのアンから反感を抱かれ、1710年に和平を唱える野党のトーリー党のロバート・ハーレー、ヘンリー・シンジョンらがアンの信任を得るようになると6月に更迭された。アンからは代償として年金提供を持ちかけられたが、「国家のために奉仕する栄誉を与えられずとも、国庫を食い物にしたりはしない」と言って拒絶した。4月にサラがアンと絶交、8月に第一大蔵卿のゴドルフィン伯爵が更迭されたため、サンダーランドの更迭はトーリー党政権誕生の布石であった。10月の総選挙で勝利したトーリー党が与党となり、ホイッグ党が野党に転落してからはトーリー党の批判に立っていた。また、サンダーランドの妻アンは寝室女官(lady of the bedchamber)を務めていたが、サンダーランドが更迭されたときは留任、1712年1月にマールバラ公爵が解任されたときに辞任した。 トーリー党は政権を握ると即座に前任のホイッグ党政権を攻撃、1711年1月11日にはホイッグ党政権による戦争遂行への非難動議が貴族院で可決され(賛成68票、反対48票)、中でもサンダーランドが集中攻撃を受けた。ギルバート・バーネット(英語版)によると、第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチなどトーリー党急進派はサンダーランドの弾劾を検討したほどだったが、南部担当国務大臣の初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグがノッティンガムらに関連文書の提供を拒否したため失敗した。ノッティンガムはサンダーランドの追い落としに失敗したため、代わりに彼を利用することを模索、その結果2人は手を組んで政権を攻撃した。たとえば、1711年12月7日にノッティンガムが講和案への反対動議を提出したとき、サンダーランドは激しい演説でそれを支持、さらに返礼として便宜的国教徒禁止法案を提出したが、この法案がホイッグ党の盟友である非国教徒を攻撃するものだったためサンダーランドへの不満が噴出した。 サンダーランドはさらに麦芽税法に不満を感じるスコットランド貴族とも手を組み、(サンダーランド自身が麦芽税法を推進した人物の1人だったにもかかわらず)スコットランド貴族が満足に感じる結果にならない場合、1707年合同法の廃止に賛成すると表明した(1713年6月1日)。
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野党期
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「ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の記事における「野党期」の解説
1708年にゴドルフィンとマールバラ公が辞任を表明した時、支持者がアンだけで他の閣僚や議会の反発に遭い逆に形勢不利となり、国務大臣を辞任して下野した。しかし戦争の長期化に伴う政権への不満を抱くホイッグ党の穏健派やトーリー党を取り込み、1710年にロチェスター・ノッティンガムら急進派とも組んで巻き返しを図った。アンを通してホイッグ党員の罷免を行い、6月にサンダーランドを罷免、8月にゴドルフィンも更迭させ、財務大臣に就任して与党に返り咲いた。10月の総選挙ではトーリー党が圧勝し、完全にホイッグ党に対してトーリー党が優位に立った。翌1711年にグレートブリテン貴族としてオックスフォード=モーティマー伯爵に叙されるとともに、大蔵卿に就任して政権を握った。以後、同じく野党に下りながら協力していった北部担当国務大臣のヘンリー・シンジョンと共にスペイン継承戦争終結へ邁進していくことになる。
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