最初の野党期(1735-1746)
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「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「最初の野党期(1735-1746)」の解説
ピットが議会入りした当時、首相ロバート・ウォルポールの指導の下にホイッグ党一党優位体制が築かれていた。トーリー党はウォルポールの巧みな政局運営やジャコバイト扱いされたことで信用を落としており、慢性的な少数野党状態に陥っていた。トーリー党が脅威でないため、ホイッグ党はいくつかの党派に分裂しており、中には政権を批判する野党党派も出現するようになっていた。 ピットもタカ派若手議員としてウォルポール首相の「軟弱外交」を批判して活躍し、庶民院内で影響力を拡大させた。また国王ジョージ2世の長男であった皇太子フレデリック・ルイスに接近し、1737年から1745年にかけて皇太子の寝室宮内官を務めた。 ジョージ2世から強硬派として倦厭されていたため、1742年2月にウォルポールが退陣した後の新政権に入閣できず、引き続き野党の立場を取り続けた。オーストリア継承戦争をめぐってはハノーファー王国軍をイギリスの負担で維持する政策を「ハノーファー優先」と批判した。 1744年に初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの未亡人サラ・ジェニングスが亡くなると、彼女の遺言によりピットに1万ポンドと地所が遺贈された。サラはウォルポールを毛嫌いしており、ピットがウォルポールに対して容赦ない攻撃をしていたのが爽快だったというのが遺贈の表向きの理由であったが、その鋭い慧眼でピットに大英帝国を築き上げる素質を感じたためとも言われている。
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