最初の野党時代
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1830年11月、半世紀ぶりのホイッグ党政権グレイ伯爵内閣が成立した。 グレイ伯爵内閣は選挙法改正を推し進めようとしたが、庶民院においてはピール、貴族院においてはウェリントン公爵がその反対運動を行った。ピールはいかなる選挙権拡大にも反対という立場ではなかったものの、ホイッグ党が主導する選挙法改正には断固として反対するつもりだった。 ウェリントン公爵は選挙法改正法案を廃案にすべく再び首相になろうと図ったものの、世論の激しい批判で失敗した。これ以降ウェリントン公爵は「二度と組閣したくない」と公言するようになり、保守党の実務をピールに委ねるようになった。しかしピールに対する党内極右派(ウルトラズ)の反発は強く、この時点でピールを正式な党首にするのは不可能だった。 グレイ伯爵内閣は1832年6月に第一次選挙法改正を達成し、その後も社会改革政策を次々と打ち出したが、それに伴って閣内・ホイッグ党内の亀裂も徐々に拡大していき、1834年5月にはアイルランド国教会の教会税を転用する法案をめぐって内閣は閣内分裂を起こすようになった。スタンリー卿(後のダービー伯爵)が陸軍・植民地大臣を辞職して、ホイッグ党からも離党しダービー派を形成するようになったのである。グレイ伯爵はこれ以上の政権運営は不可能と判断して7月に辞職した。 後任の首相にはグレイ伯爵の信任厚きメルバーン子爵が就任したが、メルバーン子爵はホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にしようとしたことで国王ウィリアム4世と対立を深め、11月に罷免された。
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