最初の重要性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/05 17:35 UTC 版)
フランスのブルゴーニュで設計された砲耳を持つ攻城砲は、その性能のために、1465年から1840年まで重要な改善をほぼ必要としなかった。 シャルル8世とフランス陸軍はこれらの新型砲を第一次イタリア戦争に投入した。当時、軍事と砲術について優秀であると見なされていたが、イタリア人はフランスにおける攻城兵器の革新を予測しなかった。これ以前の野戦砲列の砲は、巨大で大口径の砲であった。この超大型砲に加え、巨大な石、または他の投射物が、目的地から目的地まで一緒に引きずって行かれた。こうした巨大なものは包囲戦にのみ有効に投入でき、より多くの場合、戦場では心理的な効果しかもたらさなかった。こうした巨大な臼砲を保有することは、どのような陸軍にも勝利を保証するものではなかった。フランス軍はこうした巨砲の限界を理解しており、彼らの努力をより小型で軽量な砲の改善へと傾注していた。使用された砲はより小型で、より扱いやすい投射物をさらに多量の装薬と組み合わせていた。こうした要素と共に砲耳を装備したのは2つの理由が鍵となっている。軍馬で編成されたチームは今やこれらの砲を充分速く輸送して部隊に追従できたこと、また砲撃の前に停止して、適切な射程を得るため砲を砲架から分解する必要が無かったことである。イタリアの歴史家・政治家であるフランチェスコ・グイチャルディーニはしばしば「歴史の父」とも呼ばれている。彼は、砲列が市街の防壁に対して非常に素早く配置され、緊密に並べられた砲は非常な速射を行ったこと、またこうした力、砲撃により加えられる損害の総計は、1日の問題から1時間の問題へ移行したと記述した。1512年のラヴェンナの戦いと1515年のマリニャーノの戦いで史上最初に見られるように、砲兵と砲は包囲下の都市に対する侵略軍の勝利について、非常に決定的な役割を果たした。都市は士気を保って最高7年の包囲に抗したが、これらの新兵器の出現により速やかに陥落した。 新兵器が非常に速く輸送され、戦術上重要な位置からより精密な照準ができるようになった時点で、防御側の戦術と防御施設は変更を余儀なくされた。2つの変更点は壕、そして丈を低めて傾斜をつけ、土砂を詰めこんだ城壁の追加である。この城壁は市街の周囲を包み、砲弾の威力を吸収した。また円形の監視塔は角張った稜堡へ代替された。こうした塔は「イタリアの影響」とみなされている。 誰であれ、こうした新兵器を持つ余裕がある者は、今まで彼らの軍に併合することのできなかった彼らの隣人や、より小規模な独立国を凌ぐ戦術的な利点を得た。より小規模な国家、例としてはイタリアの公国では複合化が始められた。またフランスやハプスブルク皇帝など、既存のより強大な存在は彼らの領土を拡大し、より強力な統制を維持した。貴族階級は彼らの領土と城が脅威に襲われたことから、彼らに課せられた税を払い、またより密接に彼らの統治者の要求に従い始めた。 砲耳を装着した攻城砲と共に従来よりも強力で大きな国家が形成されたものの、これによって強化された力を持つ近隣の政府の間には紛争が生じ始め、続く数世紀の間、ヨーロッパを苦しめ続けた。
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