最初の長編小説『上海』
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芥川龍之介の最晩年に、「君は上海を見ておかねばいけない」と言われ、1928年4月から約1か月間、上海に滞在する。芥川は1925年11月に改造社から『支那游記』を発表していた。大正末期から昭和初期のこの頃、芥川龍之介をはじめ、吉行エイスケ、村松梢風、金子光晴などが上海を訪れている。また内山完造の経営していた内山書店には魯迅をはじめ、中国や日本の文学者が多く集まっていた。また内山完造と交遊関係のあった改造社社長山本実彦も横光の渡航に期待していた 滞在中、横光は妻・千代へ「支那人の汚さと云つたらない。美しいのは、道路だけだ」と伝えた。また、案内された音楽会やダンスホールに集まる西洋人は、「下劣な獣」に見えたという。この上海で感じた数々の不条理や混沌が、西洋列強に支配される身近なアジア、「自分の住む惨めな東洋」を強く意識させ、横光に民族意識が目覚めた。長編『上海』はこの“落差”と“汚さ”のショックから構想された。 改造社は横光に「上海紀行」を依頼したが、横光は紀行でなく長編小説を願い出た。改造社社長山本実彦宛書簡で「紀行に書いてしまいますと材料が盛り上がって来ませんし、たいていの人がそれで失敗しています」と書いている。横光は当初「ある唯物論者」と書名を想定していたがのちに「上海」と変更する最初の長編小説を執筆し始める。連作長編の形で執筆されたこの作品は、内容的には1925年の五・三〇事件を背景に、上海における列強ブルジョアジーと中国共産党、押し寄せるロシア革命の波と各国の愛国主義といった諸勢力の闘争を描いた野心作であると同時に、形式的には新感覚派文学の集大成であり、新心理主義への傾倒の兆しもみられる問題作であった。『上海』は第一篇「風呂と銀行」を1928年(昭和3年)から書き始め、1931年(昭和6年)にかけて『改造』に断続的に発表されたが、内務省の検閲を意識して改造社は自主規制し、多くの伏字が見られた。伏字となったのは、「(一団の新しい敵群)は…(破壊)する」「(日本人)を潰せ」といったストライキによる破壊行為の描写などであった。 1928年11月、世田谷区北沢2丁目145番地に新居を立て、犬養健が「雨過山房」と名付けた。同11月、「その国にはその国の文学がある以上、その国の形式論が独特な長所を持って現れなければ、文学は発展しない。日本の文学は象形文字を使用するとすれば、殊に、独特の形式論が発生すべき筈である」と書いた。1929年にも「聴覚より視覚を根本とした日本独特の形式論」とも書いている。 1928年11月、『新選 横光利一集』を改造社から刊行。
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