最初の障害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「最初の障害」の解説
ギオルギ8世は即位以降、独自の軍事力を保持し外交政策を展開しているサメグレロ、グリア(グルジア語版)、サムツヘ(グルジア語版)といった力の強い公国の独立主義に直面することとなった。ギオルギ8世は公式にはジョージア全土の統治者として国を治めたが、実際の支配はカルトリに限られていた。1447年、サムツヘ公国(グルジア語版)において、アタベグのアグブガ2世に対し弟のクヴァルクヴァレ2世が反乱を起こし、内戦が勃発した。ジョージア王国はアグブガ2世を支援した。アグブガ2世はトビリシに避難し、1451年に没するまでギオルギ8世によってサムツヘの領主として認められ続けた。アグブガ2世の死後、ギオルギ8世はクヴァルクヴァレ2世の宰相の説明を聞き入れ、クヴァルクヴァレ2世にアタベグの称号を認めた。ただしジョージア王国とサムツヘ公国の緊迫した関係を改善するには至らなかった。 当時自治領主として統治していたクヴァルクヴァレ2世は、独裁的な統治者としてジョージア王国から完全に独立する方針を取った。クヴァルクヴァレ2世はヴァルジア(グルジア語版)と王領を奪い、ギリシャ正教会の府主教の助けを借りてエルサレムとアンティオキアから聖職者を招聘し、サムツヘ正教会を独立正教会として宣言した。そしてギオルギ8世およびジョージアのカトリコス総主教ダヴィト4世(グルジア語版)の名が祈りの言葉から削除され、クヴァルクヴァレ2世はアツクリ(グルジア語版)の主教を総主教に昇叙させた。この動きに対してダヴィト4世は、サムツヘ正教会を認めたすべての司祭を破門し、地元のジョージア人に対してサムツヘ正教会に接触しないよう指示した。サムツヘの司祭らは財政難を恐れ、アツクリの主教は独立正教会を設立する動きから身を引き、再びムツヘタの主教として叙任された。独立を目指すクヴァルクヴァレ2世にとって、これは戦略的敗北となった。 1452年または1453年、ディミトリは狩猟中に馬の事故で死亡した。これによりギオルギ8世はジョージア唯一の君主となった。ディミトリの息子コンスタンティネ(グルジア語版)はギオルギ8世の保護下に置かれ、兵学の教育が施された。
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