最初の開拓者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/20 05:37 UTC 版)
翌年春、男性のみで構成された植民を目的とした遠征隊が派遣された。彼らの多くはアイルランドにイングランドの支配を打ち立てた古参兵であり、現地で貴金属を探し、先住民の銅精錬技術を解き明かす目的があった。指導者のリチャード・グレンビルはこの地域をさらに探検し、植民地を建設し、事業の成功の報せを持ってイングランドに戻る任務を割り当てられた。先導船がアウターバンクスに到着したときに浅瀬に乗り上げ、おそらく食料の大半が失われたために植民地建設は延期された。最初に本土海岸や地域の先住民集落を探検した後、アクアスコゴック族集落のインディアンから銀のカップを盗んだという疑いをかけられた。この報復のために、訪問した最後の集落を略奪して燃やし、その酋長を火あぶりの刑にした。 この事件や食料の欠乏もあり、グレンビルはラルフ・レーンと約75人の隊員を残してロアノーク島の北端に植民地を建設することを決断し、翌1586年4月にはさらに人と物資を運んで戻ってくることを約束した。グレンビルたちは1585年8月17日に出航した。 翌年4月が過ぎてもグレンビルの救援隊がやってくる気配は無かった。植民地は6月になっても存在しており、このときフランシス・ドレーク卿がカリブ海で襲撃を成功させた後の帰国中に立ち寄り、植民者達にイングランドに連れて行く提案を行った。金属学者のヨアヒム・ガンスを含む植民者達はこの申し出を受け入れた。グレンビルの救援隊はドレークが植民者達を乗せて立ち去った後まもなく到着した。植民地が放棄されているのを発見したグレンビルは、部隊の大半を連れてイングランドに戻ったが、イングランドの駐留と、ローリーのバージニアに対する権益の保護の双方を維持するために少数の分遣隊を残した。
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