かのう‐こうきち〔‐カウキチ〕【狩野亨吉】
狩野亨吉
狩野亨吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 10:16 UTC 版)
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。
注釈
- ^ 亨吉は漱石の要請により五高の教頭で務めた。亨吉は、小説『それから』の主人公「代助」のモデルになったといわれる。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 亨吉の次の学長の新渡戸稲造と比較すると、亨吉は内向きで稲造は外を向いていたと評される。また、亀井高孝は「新渡戸先生はいだいであるが、その道を進む人はありえよう。しかし狩野先生のやうな人は再び出にくい」と記している。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 富岡謙蔵とは富岡鉄斎の子であり、また、桑原隲蔵の子が桑原武夫である。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 漱石の『吾輩は猫である』に登場する「苦沙弥先生」のモデルは狩野亨吉だといわれている。「狩野亨吉」『秋田大百科事典』(1981)p.203
出典
- ^ a b c 「狩野亨吉」『秋田大百科事典』 (1981) p.203
- ^ a b c d e f g h i 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊 第1229夜
- ^ 労働観私論 ( III ) 三浦豊彦、労働科学 69巻、7号、1993
- ^ 狩野文庫データベース(東北大学デジタルコレクション)
- ^ “狩野亨吉文書”. 東京大学. 2024年1月17日閲覧。
- ^ 漱石の親友、元一高校長死去(昭和17年12月23日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p69 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
- ^ 『官報』第7499号、「叙任及辞令」1908年06月26日。
狩野亨吉
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狩野亨吉は、1928年(昭和3年)5月に、天津教信者2名から7枚の写真の鑑定依頼を受けたが断った。1935年(昭和10年)『日本医事新報』から鑑定を依頼され、7枚中5枚を鑑定し、偽造と回答した。翌、1936年(昭和11年)6月、岩波書店の『思想』誌上に発表した「天津教古文書の批判」により偽書と証明した。鑑定したのは以下の5文書の写真である。 『長慶太神宮御由来』 『長慶天皇御真筆』 『後醍醐天皇御真筆』 『大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆』 『大日本国太古代上々代神代文字之巻』 狩野亨吉は、1942年(昭和17年)に検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。
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