長與又郎とは? わかりやすく解説

ながよ‐またろう〔‐またラウ〕【長与又郎】

読み方:ながよまたろう

[1878〜1941医学者東京生まれ。専斎の三男ドイツ留学恙虫(つつがむし)病リケッチア発見者一人心臓肝臓の病理学権威東大総長などを歴任


長與又郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/01 14:18 UTC 版)

長與 又郎
人物情報
生誕 (1878-04-06) 1878年4月6日
日本[[]]
死没 1941年8月16日(1941-08-16)(63歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 医学(病理学)
研究機関 東京帝国大学
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長與 又郎新字体長与 又郎、ながよ またお、1878年明治11年)4月6日 - 1941年昭和16年)8月16日)は、日本病理学者、男爵研究の世界的権威。号は雷山。

経歴

出生から修学期

1878年、医学界の重鎮・長與專齋の三男として東京神田で生まれた。慶應義塾幼稚舎正則学校第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学。1904年12月に卒業。その後、医学修行のためドイツフライブルク大学に留学した。

病理学研究者として

1910年に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。翌年に教授に小学し、病理学講座を担当した。夏目漱石の主治医でもあり、1916年に漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。

伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年東京帝国大学第12代総長に就任した。1936年帝国学士院会員に選出された。1937年林内閣発足時に文部大臣への就任要請を受けたが辞退した[1]1938年文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。同年12月28日、東京帝国大学を退任し、名誉教授の称号を授与された[2]。昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、石井四郎軍医とも交流があった。

学界では、がん研究会会頭を務めた。がん研究会会頭在任時にがん研究所やその附属病院(現がん研究会有明病院)の開設に尽力した。1941年には日本癌学会を設立するなど、癌の解明に努力した。父の遺志を継いで、公衆衛生院結核予防会をも設立した。

自ら予言していた通りに肺癌となり、1941年8月16日、東京都麻布区の自宅にて死去。享年64。死去前日の8月15日、医学への貢献により男爵となった。墓所は青山霊園(13-1イ-2-2-6)にある。

栄典

位階
1918年(大正7年)2月20日 - 従五位[3]
勲章等
1941年(昭和16年)
8月15日 - 男爵[4]
8月16日 - 勲一等瑞宝章[5]

研究内容・業績

専門は病理学で、特に癌の解明に向けて研究を行った。がん研究所を開設して研究と臨床治療の環境を作り、また日本癌学会がん研究会を設立して研究振興の足掛かりも整備した。

長與又郎賞(日本癌学会)

1996年、日本癌学会は長與を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。

大学スポーツとの関わり
  • 東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという。東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている。
  • ボート競技にも取り組んでいたことがあり、晩年の1940年戸田漕艇場オープン時に行われたデモンストレーションに出漕している。漕ぎ終わった後のインタビューでは「ラジオ体操をやっているから、まだまだ若い者には負けない」と語っている[6]

親族

著作

日記
  • 『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』(全2巻) 小高健編、学会出版センター 2001
著書
  • 『癌の常識.胃潰瘍.腹痛と外科』南大曹・塩田広重共著、東西医学社 1931
  • 『日本に於ける癌腫の統計的研究』癌研究会 1933
  • 『傑出人脳の研究』内村祐之西丸四方共著、岩波書店 1939

長與又郎に関する資料

  • 『長与又郎伝:伝記・長与又郎』長与博士記念会編、大空社 1998
  • 『長与又郎:日本近代医学の推進者』 小高健著、考古堂書店 2012

外部リンク

脚注

  1. ^ がん研究の権威、元東大総長が死去『朝日新聞』(昭和16年8月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p559 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 『官報』第3597号、昭和13年12月29日。
  3. ^ 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。
  4. ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1941年8月16日。
  5. ^ 『官報』第4385号「叙任及辞令」1941年8月19日。
  6. ^ 漕ぎ初め式、古希艇や還暦艇も出場『東京日日新聞』(昭和15年11月1日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  7. ^ 『定本横光利一全集 第16巻』、河出書房新社、1981、p259
  8. ^ 細川周平片山杜秀 監修「杜 こなて もり・こなて」『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、678-679頁。ISBN 978-4-8169-2119-3 
学職
先代
小野塚喜平次
東京帝国大学総長
1934年 - 1938年
次代
平賀譲
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
長與(又郎)家初代
1941年
次代
長與太郎



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