留学後
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戦後、韓国で音楽の教員として教鞭をとった後、1956年にパリ国立高等音楽院に留学。その地でオリヴィエ・メシアンを知り、「この国(フランス)は現代音楽には非常に厳しい、ドイツのほうが現代音楽をやりやすい。ダルムシュタット講習会に参加したらよい」というメシアンのアドヴァイスを受けドイツに移り、1957年ベルリン芸術大学に入学した。すでに40歳を目前に控えたにもかかわらず、ヨーゼフ・ルーファーから十二音技法を厳しく教わった。このことで、自作品リストからは前述の童謡集のような類まですべて撤回され、大学入学後の作品しかない。「ピアノのための五つの小品」、「7つの楽器のための音楽」、「弦楽四重奏曲第3番」は彼のデビュー作となり、「7つの楽器のための音楽」はレコードまで発売され、その作品の指揮を行った人物がフランシス・トラヴィスであった。以後数十年にわたり、トラヴィスは尹を積極的に応援した。 1963年には北朝鮮を訪れ、金日成とも親交を持った。しかし1967年6月17日、西ベルリンにて KCIA によって拉致され、ソウルに送還された(東ベルリン事件)。そして拷問の末、スパイ容疑で死刑を宣告されたが、イーゴリ・ストラヴィンスキーとヘルベルト・フォン・カラヤンが主導した韓国政府への請願運動に、ルイージ・ダッラピッコラ、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、ハインツ・ホリガー、マウリシオ・カーゲル、ヨーゼフ・カイルベルト、オットー・クレンペラー、リゲティ・ジェルジュ、アルネ・メルネス、ペア・ノアゴー、カールハインツ・シュトックハウゼンなど約200人の芸術家が署名した。1967年12月13日に無期懲役を宣告されたが再審で減刑を受け、1969年2月25日大統領特赦で釈放された。
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留学後
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ジュリアード留学後、日本とアムステルダムを拠点としながら、演奏活動を行う。1999年4月、ミラノにてアレクサンドル・ラビノヴィチのヴァイオリン協奏曲を初演、10月、日本フィルハーモニー交響楽団のオランダ・ツアーにソリストとして同行し、ブラームスの二重協奏曲を共演、12月にはカーネギー・リサイタルホールにおいて、「Yayoi and friends」として室内楽を中心としたリサイタルを開催した。2000年、ハーグ・レジデンティー管弦楽団と共演し、オランダ、日本で演奏会を行った。また、このころ、小野グループから1694年製ストラディヴァリウス「スギチェリ」を貸与された。2001年以降、毎年ふくしま国際音楽祭に招かれ、リサイタルを行っている。また、同年、結成間もないマレイシア・フィルハーモニーに招かれ、ソリストとしてアジアツアー(マレイシア,日本,韓国)を行ったほか、ピアニストのフランク・ブラレイとリサイタルを行い、2002年にはピアニストのアブデル・ラーマン・エル=バシャとリサイタルを行った。
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